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さまざまな言葉・語録について (抄)

このパートでは、

いくつかの参考になる言葉を、

ご紹介しましょう。

 

 

グラハム 

 彼はいいやつで―そして、ヘロイン中毒だった。ビジョン・クエストのことをはじめて聞いたのは、元中毒者(ジャンキー)たちの治療コミュニティにいた頃である。最初から、彼は自分の力試しとして、大自然の力とともに、ひとりで過ごすことに、誰よりも熱意を示していた。カウンセラーたちも皆、それが彼にとって、有益だろうと口をそろえた。 社交上は、彼はスターだった。活力に満ちた魅力的な男性で、気取らず、知性をもって話した。しかし、ひとたび、治療コニュニティの支援組織や友人たちと別れ、一人サン・ラファエロの街頭へ、昔のヤク仲間たちがひと嗅ぎやろうぜと待ち伏せ、彼も自分たちと同類なんだということをなんとか証明しようと手ぐすねひいているところに戻ったとき、彼がどうするか、誰にも分からなかった。
 だから、彼は、治療コミュニティの友達連中を伴って、ネバダ州トイヤベ山脈のリーズ川源流へと赴いた。カウンセラーのアルと看護婦のアンジェラ(必要に応じてメタドンを投与するため)も同行した。そこにいる間、彼は蛇がぬくもった岩にすり寄っていくように、山々になついた。アッパー・ソーミル・クリークの土手で拾ってきたミミズを持って、レインボウズ川とイースタン川で、自分の限界に挑戦した。柳の木のうろで寝た。小谷を登っては、矢じりを握って帰って来た。馬のように食べ、子羊のよう眠った。「これこそ、ぼくにぴったりの生活だ」と、彼は宣言し、カウボーイになるんだと話していた。彼が、治療コミュニティにおけるスターだとしたら、高地の荒れ野では、一輪の花だった。 ビジョン・クエストから戻ってきたとき、彼はひとまわり大きくなっていた。自己を試し、自己を分析するいい時間を過ごしたのだった。晩夏の陽光は力強く、純粋だ。彼の肉体の不純物を焼き尽くした。断食は、内側から、彼を浄めた。彼は、川の近くに生えていた茂みから、野生のローズヒップを摘み、濃く甘やかなハーブティをいれた。その眼は澄んで、動物のそれのように機敏だったし、体は引き締まり、こんがりと焼けていた。とにかく、とんでもなくいい状態のようだった。
 その夜、分かち合いとおびただしいみやげ話のあと、彼はもう戻らないつもりだ、とみんなに告げた。都会にはもうなんの興味もない。ここにとどまって、場合によっては谷間の牧場かどこかで雇われてもいい。
 それから私たちは、帰ることについてじっくり語り合った。たき火は、芳しいジュニパーの香りを吸い込み、星々は忘却を誘う砂原の上をゆっくりと踊りながら横切っていく。帰ってモンスターに直面することへの恐怖こそ、本当のモンスターなのだ、というのが私たちの結論だった。
 翌朝、私たちは出発した。この時は、悲しかった。峡谷の斜面を登っていくとき、川は、緑色の蛇が柳の皮を脱いでいるかのようにキラキラときらめいていた。「ここで学んだことは決して忘れない」とグラハムは誓った。
 一ヵ月後、彼は治療コミュニティを卒業して、サン・ラファエロに戻り、パタルマで養鶏場の清掃の仕事について暮らし始めた。仕事場へはバスで通勤し、毎晩ぐったりと疲れて帰宅した。彼にヘロインの手ほどきをした昔のガールフレンドと、よりを戻した。でも、ヤクはやっていないよ、と私たちには話していた。
 私は二度ほど、彼の住まいに立ち寄った。窓がなく、部屋の片隅にテレビがあるだけの気が滅入るようなアパートだった。もう一方の隅には神殿ができていた―祭壇の絵の前に鹿の頭蓋骨―、一対の枝角、黒曜石の細片とビジョン・クエストの写真や記念の品を飾ったものである。彼はポイント・レヤやヨセミテへ行こうかと思う、とあいまいに話していたが、自分をすり減らしていくような今の生活に対する自己嫌悪にどっぷり漬かり、無力感にとらわれた様子だった。煙草をふかし続けていた。
 二ヶ月ほどして、彼のことが新聞に載った。ガールフレンドと一緒に、盗品と「量不明のヘロイン」所持で捕まったのだ。そして、刑務所に舞い戻った。スタート地点に戻ったわけだ。
 長い間、彼の消息は知れなかった。そして三年後、私たちは高速道路ですれ違った。彼は、古いけれどまともな小型トラックの荷台に道具箱をのせて走っていた。「やあ」とやや興奮した感じで声をかけてきた。「やあ!」と私も叫び返した。「どうしてる?」
 彼は窓から頭を突き出し、満面に笑みを浮かべてどなった。「足洗ったよ!」

                S・フォスター&M・リトル

                『ビジョン・クエスト』高橋裕子訳(VOICE)

 

 

道で迷う体験は、もっとも中身の濃い、豊かな体験です。

なぜなら、自分にとって未知であった、

未開発の自分の能力を発見・開発するチャンスだからです。

ちなみに、最終的に大きな充実した人生に到達した人々は、

例外なく、人生の迷い道の体験を持っています。

それなしで大成した人はいません。

 

内側へ注意を向け変える練習を続けてゆくと、

ある時点で「気持ちがいい」という感じが変化することがあります。

苦しみや悲しみを包み込んだ「気持ちがいい」に変わるというか

進化(深化)した感じです。

その気分は「気持ちがいい」という言葉よりも、

「充実」とか「定まる」とか「自己肯定」とかの言葉がなじみます。

その気分はまた、芯のところに興奮があり、

それを、厚みのある静けさが包み込んでいる

という感じでもあります。

神田橋 條治

 

『精神科養生のコツ』

(岩崎学術出版社)

 

 

 

 

たまきはる曠野のいのち夏草をおほひて遠く果てきいくさは

村上一郎

 

 

たまきはるいのち生きむと思ふ日のわが道はかたくただかたくあれ

村上一郎

 
 
『激攘』
(思潮社)

もし、君たちが、明日を違ったものにしたければ、
まず今日を違ったものにしなければならない。
もし、今日が単に昨日の結果であるなら、
明日もまったく同様に、今日の結果となるだろう。  G・I・グルジェフ

 

ウスペンスキー『奇蹟を求めて』浅井雅志訳
(平河出版社)

 

 

 覚醒とは、太陽にもっとも近い傷口である。

 

ルネ・シャール

 


  人間は、決して、この子どもらしさから抜け出すことはありません。人間が、完全におとなになり切ることはないからです。まれに、そう見えることがあっても、表面だけのことです。子どもが、大きい子のまねをするように、ぼくたちは、おとなのまねをしているだけです。
  深く生きようとすれば、たちまち、ぼくたちは子どもになります。エスには、年齢がありませんし、エスこそは、ぼくたちの本当の姿ですから。最大の悲しみ、あるいは最高の歓びの瞬間の人間を見てごらん。顔は子どもの顔になり、身振りも子どもらしくなり、声はふたたび柔らかくなり、心臓は子どものときのように躍り、目は輝くか曇るかします。  たしかに、ぼくたちはこうしたことを隠そうとしますが、それは明らかです。注意さえすれば、すぐに、気づきます。ぼくたちが、他人のうちのこれほど目立った兆候を見過ごすのは、ぼくたち自身のうちの、それに気づきたくないからです。

                   G・グロデック『エスの本』岸田秀他訳
                                (誠信書房)

  核形成という考え方は、塑性物質が、ある姿に固まる性質を理解するうえで役に立つ。第二ステージの場合、この「固着」は粒子そのものである。いっぽう、第六ステージの場合は、目標動物、つがい相手、獲物など、ある強さで狙い定めた対象なり、イメージなりがこれである。(中略)
  人間ないし人間意識にとって、こうした核形成は、ユングが元型と呼ぶものにほかならない。これらは、ある強度charge(チャージは「電荷」と通ずる)を帯びており、正か負の価を持っていて、心理学用語でいうと、何らかの刺激を引き起こしたり、さまざまな反応パターンないし動因を誘発したりする。人間のより大きな発達の中で見れば、これは感情エネルギーの凝縮したものであり、その不可抗力的な力も、けっして克服不可能ではないし、それらを意識の中へ呼び起こして、そこに捕らえられたエネルギーを解き放つこともできる。
  ほとんどの心理療法は、こうした固着したエネルギーの「核形成」をほぐすことにかかわるが、これは精神エネルギーを自由にしてやる点で、質量を運動エネルギーへと解放することに通じている。

                  アーサー・M・ヤング『われに還る宇宙』
                             (プラブッダ訳)

テイクを繰り返し、
「何が足たりない?」と聞くと―
彼(キューブリック)は、
「マジックだ」と。

                            トム・クルーズ

 

 

 私は、ゲシュタルト療法の創始者とよく言われます。それは戯言です。しかし、私をゲシュタルト療法の発見者、もしくは再発見者と呼ぶなら了承できます。ゲシュタルトは、地球の生成の歴史と同じくらい古代からある古いものです。

 

F・パールズ『ゲシュタルト療法バーベイティム』

倉戸ヨシヤ訳(ナカニシヤ出版)

 

 

 

 

 〈真理〉は、途なき大地であり、いかなる方途、いかなる宗教、いかなる宗派によっても、近づくこ とのできないものなのです。それが私の見解であり、私はこの見解を絶対的に、かつ無条件に固守します。無限で、いかなる条件づ けも受けず、どんな途によっても接近することのできない〈真理〉は、組織化しえないものであり、また、特定の途をたどるように人を導いたり、強制したりするような、どんな組織体も形成されてはならないのです。もし、あなたがたが、最初にこのことを理解されるなら、ひとつの信念を組織化することが、いかに不可能であるかがおわかりになるでしょう。信念というのは、純粋に個人的なことがらであって、組織化することはできず、また、してはならないものなのです。 もしそうするなら、それは生命のない結晶体になってしまいます。それは、他人に押しつけずにはすまない教義や宗派、宗教になるのです。

 これこそ、世界中の誰もがしようと試みていることなのです。〈真理〉は狭められ、おとしめられて、無力な者たち、かりそめに不満を感じる者たちの慰みものにされています。〈真理〉を引き下ろすことはできません。むしろ、ひとりひとりが、そこへ上る努力をしなければならないのです。あなたがたは、山頂を谷底へ運ぶことはできないのです。

 クリシュナムルティ

M・ルティエンス/高橋重敏訳

(めるくまーる)

 

 

 

 

 

「悪銭身につかず」

とはいうものの、

芸は、盗んだものしか、

身につかないんです。

 

あるピアニスト

 

 

 

 

アンクル・ロイが、ぼくを見てこう言った。
「タダシ、判断を急ぎすぎてはいけない。何が起きているのか、よーく見るんだ。そうすると、いつしか頭ではなく、ハートが『よし!』と判断をくだすときが来る。それを覚悟というんだ」
この言葉は、強烈に心に響いた。


「ワシテ!」
ラコタ族の人たちは、この言葉を好んで使う。「よっしゃ!」とか「OK!」というニュアンスの言葉だ。頭ではなく心で納得できたとき、ある種の覚悟が決まったとき、彼らの口から出る言葉が「ワシテ!= よっしゃ!」なんだとぼくは受けとめている。ぼく自身も大切にしている言葉のひとつだ。
もうひとつ、ぼくの好きなラコタ語がある。それは、
「ワァナホー」
という言葉だ。これは英語で言うと、
「Ready?」
に当たる言葉で、それに対して
「ワァナ!」
と応えるとき、
「今こそ、そのときだ!」
という意味になる。

アンクル・ロイは、よくこう言っていた。
「ハートが判断をくだして、いよいよ覚悟が決まったらなあ。そこから先は、すぐに行動に移すんだよ」
じっくり自分に問いかけて、覚悟が決まれば、
「ワァナ!」
で、今こそ歩き出そう。
自分のハートが「よし!」と言ったことに、人は決して後悔しないものだと思う。

 


                  松木正『自分を信じて生きる』(小学館)

 

 

山折
「仏教、特に密教のものの考え方というのは、色々な立場があるわけですけれども、一つには、仏でも菩薩でも守護神でも、これらをすぐさま具象的イメージとしてとらえる。つまり権化の思想―incarnation―というものがある。これに対して日本の神道の考え方には目に見えない神霊が遊幸し憑着するという感覚がどうも基礎になっているように思うのです。こういう遊幸し、憑着し、そして祟るといった機能を抽象して言えば憑霊 ―possesion―というふうに言うこともできるのではないでしょうか?」

五来
「基本的には憑霊だと思います。だから天照大神の姿は誰も見たことがない。天照大神の御杖代として遊幸するのは倭姫命ですし、天照大神が稲を食べているのは、倭姫命が食べているのです。修験道の神や仏は山伏に憑依するが、その笈の中に籠められて、いわば山伏と一体となって歩くわけです。「善光寺縁起」は、本田善光が難波から信濃へ下るとき昼は善光が 如来を背負い、夜は如来が善光を背負ったなどといいます。一体化しているのです。法然の弟子の念仏房については「阿弥陀如来の使者なり」ということが言われている。そういうのは遊行者に阿弥陀如来が依り憑いているわけです。だから庶民信仰ではその人がそのまま仏なんで、これが日本人の即身成仏の考え方です。密教の三密瑜伽の即身成仏とは違うのです。この辺のところ、教条的な密教にとらわれていたら、日本の密教、とくに山岳信仰を基底にすえた日本密教はわかりません。日本人は神さまがその人に宿っているから「即身成神」、それを仏さまに転換して即身成仏なのです。少し論理が違いますわね。密教学者は五来は 密教を誤解しているというかもしれないが、日本密教も日本仏教も、インドの密教、インドの仏教の誤解の上に成立したのです。三密瑜伽したら大日如来と凡夫 が一つになるということは理論ですけどね。日本人は苦行の結果、精進の結果でないと三密瑜伽しないのです。それが黙って座って、印を結び、真言をとなえ三摩地に住したら、ぱっと光りを放って「八宗論大日」の絵みたいに、弘法大師が大日如来に変わったというのは子供だましのお伽話であって、面白いとは思うが、話す方も聞く方も本当と思っていない。人間にできない苦行、山籠もりをした行者に対してのみ、その人の言うことは神の言葉だ、不動明王の言葉だというような受け取り方をしているわけです。修験道は非常に原始宗教的で、マジコ・リリジャスであると同時に、シャーマニスティックですね。(…)」

山折
「そうすると、いわゆる本地垂迹曼荼羅などに出てくる法体、俗体をした神々というのは、あれはやはりそういう考え方がそのままあらわれたものということになりましょうか。人間の姿そのままで……。」

五来
「修験道の神というのは、女神である、男神である、あるいは法体であるということだけがわかっているのですね。本当は神名はわからないのです。だから十二単で 表現したり衣冠束帯で表現したりする。別にその神さまには個性も何もないわけです。熊野の神さんも日吉の神さんもみな同じ顔をしているわけです。同じ服装 をしています。熊野本宮の神は「熊野に座す神」という名なのです。」
                         

五来重/山折哲雄『山の信仰と日本の文化』

 

 

 

画家は、その身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。

 

M.メルロ=ポンティ『眼と精神』

木田元他訳(みすず書房)

 

 

 


暗い夜の闇の中で、誇示(みえ)のために事をなす人が、純粋な動機の人からはっきり浮き立って見える。夜、偽善があばかれる。普通の事物は夜の闇に覆われて姿を消し、昼の光の中で正体を現すのに反して、誇示(みえ)の人は夜あばき出される。

「誰も見ている人がいない今、一体誰のために私はこのことを為るのか」と彼は考える。

これに対してこう答える人々がある、「誰か見ている者がある。だが、お前がその誰かを目のあたり見るまではお前は誰でもないのだ」と。

 

『ルーミー語録』

井筒俊彦訳(岩波書店)

 

 

「四福音書、ならびに使徒の書簡を読むと、
パン・プノイマティズムの印象を受ける。
いたるところ、霊である、という感銘を強く受けるのである。
そこでは、いわゆる聖霊という教義は、
まだ出来上がっていないといっていい。
そういう教義は、使徒にもまた護教者にも見出すことはできない。
(中略)聖霊とは人間にとくに近いものである。
それは、人間に内在している。
その働きはひろく万人に及ぶものの、
それ自体は不可解な深秘に充ちている。
いったい、聖霊について教義を立てることができるであろうか。
私の考えによれば、それは不可能といっていい」

「S・ブルガーコフはいみじくも言った。
聖霊がある特定の人間に受肉することはない。
聖霊の受肉は、いつも全世界にあまねく及ぶ、と。
精神―ひいては霊と聖霊のとの関係をくわしく規定するのが困難なのは、
まさにこのためである。
聖霊は霊のなか、心のなか、精神のなかに業を行なう」

「聖霊の働きは、どういう現実となってあらわれるだろうか。
抑圧され卑しめられた人間の実存が終わりをつげて、
心が生命にみちあふれ、高揚し、エクスタスにおちいることこそ、
聖霊の業のしるしである。
これは、聖書に記されている聖霊の特徴でもあれば、
また文化・社会生活における精神の特徴でもある。
新神学者聖シメオンの言葉がある。
聖霊にみたされた人間は、
文字に書き記された掟を必要とせず、と」

 

ベルジャーエフ『精神と現実』南原實訳(白水社)


「『性格』と呼ばれる、その人にしみ込んださまざまの前提は、
何の役に立つのかという問いに、
『それによって生のシークェンスの多くを、
いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける』
という答えを用意したわけである。
『これが優れた音楽がどうか知らないが、しかし私は好きだ』
という対処のしかたが、性格の獲得によって可能になる、という考え方である。
これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、
変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい

「習慣の束縛から解放されるということが、
『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。
『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である。
『私』とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、
また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、
形づけ方の『型』である。
要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。
とすれば、Ⅲのレベルに到達し、
自分の行動のコンテクストが置かれた
より大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、
『自己』そのものに一種の虚しさirrelevanceが漂い始めるのは必然だろう。
経験が括られる型を当てがう存在としての『自己』が、
そのようなものとしてはもはや『用』がなくなってくるのである」

ベイトソン

 

『精神の生態学』

佐藤良明訳

(新思索社)



(続く)




 

 

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