ブックリストその2 各書籍等の内容紹介

 

ここでは、

サイトで触れている書籍等の内容を、

紹介しています。

ホロトロピック・セラピー (自己発見の冒険) 春秋社

スタニスラフ グロフ (著), 菅 靖彦 (翻訳), 吉福 伸逸 (翻訳)

 

◆変性意識と治癒を生み出す実践的心理療法

本書は、精神科医のグロフ博士が作り出した、理論体系や実践的な心理療法を、コンパクトにまとめたものとなっています。
博士は、精神分析から出発し、その限界を感じる中で、黎明期のLSDと出会い、心理(意識)状態を賦活する、その力に圧倒されるという経験を持ちました。
そして、その後、LSDを使った心理療法を実践すると同時に、そこで次々と明らかになっていった、心の多層的な領域を、体系化していくことにもなったのです。そして、私たちの心の深層にあるさまざまな領域―自伝的な領域、分娩前後の領域、超個的(トランスパーソナル)な領域―について、それぞれ整理していくこととなったのです。そして、その結果、晩年のマズローらとともに、超個的(トランスパーソナル)な領域までをも射程に含んだ、新しい学会をつくることになっていったのです。
さて、本書は、そのような博士のブリージング・セラピー、「ホロトロピック・ブレスワーク」の実践について、そのやり方についても、かなり具体的に解説したものになっています。本書を読むと、おおよそ、その実践のイメージがつかめると思われます。博士の他の書物との一番の違いは、実践の具体的なガイドブックになっている点です。
ところで、特筆すべて点は、伝わって来る、グロフ博士の人格とアプローチの手堅さです。河合隼雄は、グロフ博士に実際に会った時、「この人は本物だ」と感じたと言っていますが、博士には、うわっついたところが、まるで無いのです。あくまで、博士が観察したり、体験したりしたことを、現象として記述することに徹しているのです。そして、そのことは、公正な懐疑を保ちつつ、真実をつかみたいという、博士自身の真摯な態度の現れとも感じられるのです。そのような博士の態度が、一見説明のつかない、奇妙な、さまざまな体験領域の報告を、(信じるかどうかは読者の判断ですが)信頼のおけるものにしているようにも思われるのです。

 

 

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 [DVD]

 

◆ゴーストの変性意識、あるいは心の上部構造

映画の中では、ゴーストという言葉は、私たちの「心」を意味するものとして使われていますが、そこに幾重もの意味が重ねられているようです。
ゴーストは、そもそも、霊、幽霊を意味しています。含意としては、ケストラーの『機械の中の幽霊 Ghost in the machine』あたりが、その由来なのかもしれません。
また、映画の中で、重要な意味をもって引用される、新約聖書の流れでいえば、三位一体のひとつの位格である、聖霊 Holy Ghostとの関連も類推されます。
映画のストーリーに即していえば、ゴーストをハッキングされることによって、他者により、疑似体験の記憶さえ、ねつ造されてしまう未来社会にあっては、身体(義体)の中にある、自分の「心」の、「自分らしき」クオリアさえ、もはや自分自身の確証にならないということが、Ghostという言葉に、込められているのかもしれません。
ところで、映画の中では、新約聖書のパウロ書簡、コリント人への手紙の一節が、重要な意味をもって使われています。「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧(おぼろ)なり」。草薙素子とバトーが、非番の日に、船の上で、謎のハッカー「人形使い」のメッセージを聞くのです。そして、この節は、映画のラストシーン、草薙素子が、バトーとの別れ際に、さきの節の前にある言葉を引いて、現在の自分の心境(状態)を表すものともなっています。「われ童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり」
さて、映画の中では引かれていませんが、人形使いのメッセージは、実は、文章の前半節であり、この節の後には、次のような言葉が続いていました。「然れど、かの時には顔を対せて相見ん。今わが知るところ全からず、然れど、かの時には我が知られたる如く全く知るべし」今は、鏡を通して見るようにぼやけて見ているが、その時が来たら、直接、顔をあわせて見ることになるだろう。今は、不完全にしか知ることができないが、その時が来たら、神が知るように、すべてをあきらかに知るようになるであろう、ということです。
この言葉は、草薙素子の「自分らしき」ゴーストをめぐる焦燥感と、謎のハッカー「人形使い」との邂逅にまつわる、追跡的なテーマ(けはい)として流れているものです。そして、物語は、終盤、草薙素子が、人形使いのGhostを探るために、きわどい状況下で、人形使いの義体にダイブして、図らずも、人形使いのゴーストと相見え、ネットに遍在するかのような、彼のゴーストとの、「融合」に導かれ、「さらなる上部構造にシフトする」ところで、クライマックスを迎える形となります。
ところで、、この話のような、ゴースト(心)の「上部構造」などは、一般には、フィクションの中でしか、あり得ないように見えるかもしれません。ところが、実は、そうでもないのです。例えば、世界中で報告されている、強度なタイプの変性意識体験の事例などにおいては、しばしば、私たちの日常意識が、下位(下部)意識として、稼働しているかのように感じられる、上部(上位)意識らしきものの存在を予感する報告が、多種多様に存在しているのです。
そのような側面から見ても、この攻殻機動隊の物語は、示唆に富むところが大変多いものとなっているのです。

 

 

リアリティのダンス (文遊社)

 

◆知らされた消息 サイコ・シャーマニズム

昔は、アレハンドロ・ホドロフスキー監督といえば、『エル・トポ』や、その後の『ホーリー・マウンテン』などの、カルト・ムービーの映画監督として有名でした。その後は、『サンタ・サングレ』など、わずかな作品の紹介はありましたが、長くその消息を耳にすることもなく、彼が活動しているのかしていないのかさえ分からない状況でもありました。
さて、長くそのような状態であったため、自伝として届けられた本書は、ホドロフスキー氏のその間の消息を伝えてくれる、貴重なドキュメントとなっていたわけです。そして、その内容は、『エル・トポ』以前も、以後も、彼が、実に濃密で、精力的な活動を、生涯の探求として推し進めていたことを、知らせてくれるものでもあったのです。
さて、その自伝的内容ですが、シュルレアリスム(超現実主義)や、パニック演劇との関係など、アート系の活動は、比較的、予想がつく範囲内での、内容であったわけですが、その延長・周辺で、さまざまな精神的探求の活動も、同時に推し進めていたというのは、驚きでもあり、納得的な事柄でもありました(『サンタ・サングレ』は、心理療法的な物語でした)。
そして、(本物らしき?)カルロス・カスタネダや、アリカ研究所のオスカー・イチャーソなど、その関係での人々との交流やその描写も、とても興味深い内容となっていたのでした。
中でも、多くの紙数を割かれている、サイコ・シャーマニズム、サイコ・マジック関連の実践記述は、その内容の具体性からも、方法論的な見地からも、大変貴重なドキュメントとなっているものです。心理療法や、変性意識状態(ASC)、シャーマニズム等に興味を持つ者にとっては、特にそうであったわけです。
ところで、彼のいうシャーマニズムとは、いわば「本物のシャーマニズム」です。通常、現代社会の中で、シャーマニズムという言葉が、方法論的な概念として使われる場合、多くは、その構造的なモデルを、利用するために使われているものです。変性意識状態(ASC)を含んだ、意識の運動性や、心理的変容を描くのに、シャーマニズムのモデルが、とても有効に働くという見地からの使用です。それは、必ずしも、伝統社会のシャーマニズムのように、信念体系(世界観)として、使われているわけではないのです。
そのような意味では、ホドロフスキー氏のシャーマニズムは、本物のシャーマニズムにより近いもの、もしくは、本物のシャーマニズムとなっているわけです。そこでは、精神が、物質の情報を、書き換える力を持つこと、もしくはその区分けが無いことが、前提となっているものでもあるからです。まさに、マジック・リアリズム(魔術的現実主義)なわけです。
そのような意味においても、本の中では、施術実践のディテールを、詳細に記してくれているので、その点でも、非常に参考となるものになっているわけです。そして、その可否や評価については、各人が、さまざまな自己の経験を通して、検証していくしかないものとなっているわけです。

 

ロートレアモン全集 (ちくま文庫)

 

◆ロートレアモンと変性意識状態

ロートレアモンの作品は、19世紀後半のフランスに忽然と現れ、文学の歴史の中においても、非常に孤絶した、他に類例を見ない作品となっています。『マルドロールの歌』は、奇妙な作品です。孤独と無限を感じさせる宇宙性、奇怪で美的な暗喩(メタファー)、夢と渇望、悪と逃走、変身と旅などを主題に、普通の文学には見当たらない、不思議な透過性と屈曲を持つとともに、私たちの心の最も深い部分に触れて来る作品となっているのです。しかし、それでいながら、その作品が、どこか非常に遠いところからやって来た印象、通常の私たちの心の次元を超えた拡がりを感じさせるような神秘的な性格を有するものともなっているのです。そして、そのような、ロートレアモンの作品の謎に対して、文芸批評的なアプローチでは、およそ不満足な結果しか得られていないと感じるのは、おそらく筆者一人だけではないと思われるのです。しかし、文芸作品などをあまり読まない、普通の感性豊かな人(特に若い人)が、『マルドロールの歌』を読んだ場合でさえ、強い衝撃を覚えるというのは、文学的なゲームとは関係のないところで、この作品が持っているある特殊な性質に、人が触れるからであると考えられるのです。
ところで、彼の作品は、死後に発見される形で、歴史の中に姿を現しましたが、最初期に、彼を見出した人々が、その作品を、狂気の人の書であると感じたのは、ある意味では、正しい直観でした。そして、彼の作品が、一種、精神病圏の要素を感じさせるというのは、アウトサイダー・アートとの共通要素からいっても、妥当であるといえるのです。加工されていないような、ナマの無意識との接触感、高電圧的で、剥き出しの直接性の感覚は、世のアウトサイダー・アートと、大変近い性格を持っているのです。そして、バシュラールが指摘する、動物的世界との神話性や、ル・クレジオの指摘する、未開部族の言語との類縁性なども、それらに連なる要素だと考えられるのです。そして、これら、アウトサイダー・アートとの近似性や、動物植物世界との水平的な間近さ、原初的な世界との類縁性という特性は、そのまま、部族的な文化における、シャーマニズム的な要素としてとらえることも、可能な要素なのであります。そして、そうなって来ると、そもそも、私たちが、彼の作品を読むときに真っ先に感じる、不思議な眩暈の感覚や、意識の変容する感覚が、どこに由来するものなのか、少しあたりがついて来るというわけです。彼が、シャーマニズムと変性意識状態(ASC)の土地である、南米で育ったというのも、意味深い偶然となって来るわけです。
そして、そのように考えてみると、彼の作品には、シャーマニズム的な意識拡張や、変性意識状態に関係する、さまざまな興味深い構造があることも見えて来るのです。彼が、多様な意識の可動域を持ち、さまざまな意識状態の諸相を、流動的に渡っていった痕跡が見えて来るのです。また、その通常の日常的現実にはない、異様なまでの自由さの由来も、理解されて来るわけです。原初的な動植物世界から、人間世界までの諸領域を、また、無意識的な深層から、日常意識までの諸領域を、流動化した意識の可動域として、移っていく構造が見えて来るのです。シャーマニズムの基本的な構造とは、シャーマンが、脱魂(エクスタシィ)して、魂を異界に飛ばして、そこから、何か(情報、力)を得て、こちらに戻って来るという、往還の形式であるからです。ロートレアモンも、偶然的・変形的なタイプであれ、その想像力的な体験領域を通して、変性意識の諸相を渡り、その旅程を、作品に、刻み込んだのだといえるのです。それが、他の文学では見たこともない、不思議な奥行きを持つ、宇宙的な空間、天使的な空間を生んだともいえるのです。そのような意味合いにおいて、彼から霊感を受け、自分たちの守護神の一人と見なした、超現実主義者(シュルレアリスト)たちの、万人に開かれた創造(創作)という考え方は、(その具体的な方法論には疑問があるにせよ)正しい直観であったと思われるのです。ロートレアモンの作品には、そのようなことを、人に促す(信じさせる)ような、創造性の嵐があるのです。

 

 

イノセンス 攻殻機動隊 スタンダード版 [DVD]

 

◆私たちの「疑似体験の迷路」

映画のストーリーは、前作の後日談となっています。人形使いのゴーストGhostと融合して、「上部構造にシフト」してしまった、草薙素子(少佐)は失踪扱い、前作で、一番身近にいて、素子の最後の義体まで用意した、相棒のバトーが、今作では、主人公となっています。
そのバトーが、ネットに遍在するかのような、(元)少佐のゴーストと、交流する姿を描くのが、本作となっています。ところで、本作ですが、事故や殺人事件を起こす、ガイノイド(人形)の謎を、捜査で追っていくのが、メインの筋書きとなっています。そのような捜査の中で、バトーや、相棒のトグサは、ガイノイド製造元のロクス・ソルス社より(雇われた傭兵のキムより)、ゴーストハックによる捜査妨害を受けます。つまり、ゴースト(意識)をハッキングされ(侵入、乗っ取られ)、疑似体験をさせられてしまうのです。
そのせいにより、バトーは、コンビニで、銃を乱射したり、ドグサは、フィリップ・K・ディックの小説のような、現実だか、幻覚だか分からないような、テープ・ループのような反復体験に、巻き込まれていくことになるのです。映画の中で、バトーは、トグサに、その体験を説明するために、「疑似体験の迷路」という言葉を使いました。
さて、前作のレビューでは、ゴーストの「上部構造」などが、絵空事であるとは言い切れないということについて触れました。本作の「疑似体験の迷路」についても、同様のことがいえるのです。この私たちの日常意識が、疑似体験の迷路ではないといえる保証はどこにもないのです。そのあたりも、本作のリアリティの深さになっているものと思われるのです。

 

アレフ (岩波文庫)

 

◆宇宙への隠された通路

ボルヘスの主要な傑作は、無限的で全一的なる宇宙を、小さな物語の中に、凝集するかのように結晶させた短編群です。彼の作品では、私たちの人生を形づくる普遍的な素材―記憶、夢、書物、時間、想像力などを別様にとらえていく巧妙な仕掛けを通して、日常的現実に「無限の宇宙」を侵入させる(招き入れる)かのような、幻想的な物語が展開されていきます。さて、本作に入っている『アレフ』は、そのようなボルヘスの趣向が、一人称の語りで、比較的、直接的に表現されたかのような(表向きは)体裁になっています。
ところで、作品に出て来るアレフとは、ある架空のものを名づけた言葉ですが、それは、食堂の地下室の片隅にある「宇宙のすべてが見える」ある球体のことです。
物語は、アレフのことを知る、ある知り合いが、とある屋敷の地下室にあるアレフの存在を、ボルヘスに語り、ボルヘスがそれを、地下室の暗闇に入って、実際に確かめてみるという、ストーリーとなっています。

「階段の下の方の右手に、耐え難いほどの光を放つ、小さな、虹色の、一個の球体を私は見た。最初は、回転していると思った。すぐに、その動きは、球体の内部の目まぐるしい光景から生じる、幻覚にすぎないことを知った。〈アレフ〉の直径は二、三センチと思われたが、宇宙空間が少しも大きさを減じることなくそこに在った。すべての物(たとえば、鏡面)が無際限の物であった。なぜならば、私はその物を宇宙のすべての地点から、鮮明に見ていたからだ。
私は、波のたち騒ぐ海を見た。朝明けと夕暮れを見た。アメリカ大陸の大群集を見た。黒いピラミッドの中心の銀色に光る蜘蛛の巣を見た。崩れた迷宮(これはロンドンであった)も見た。鏡を覗くように、間近から私の様子を窺っている無数の眼を見た。一つとして私を映すものはなかったが、地球上のあらゆる鏡を見た。ソレル街のとある奥庭で、三十年前にフレイ・ベントスの一軒の家の玄関で眼にしたのと同じ敷石を見た。葡萄の房、雪、タバコ、金属の鉱脈、水蒸気、などを見た。熱帯の砂漠の凹地や砂粒の一つ一つを見た。(中略)あらゆる点から〈アレフ〉を見た。〈アレフ〉に地球を見た。ふたたび地球に〈アレフ〉を、〈アレフ〉に地球を見た。自分の顔と自分の内臓を見た。君の顔を見た。そして眩暈を覚え、泣いた。なぜならば私の眼はあの秘密の、推量するしかない物体をすでに見ていたからである。人間たちはその名をかすめたが、誰ひとり視てはいないもの、およそ想像を絶する、宇宙を。」

さて、一見なんでもない日常の風景の一角に、宇宙が、そこにすべて含まれているような、隠された秘密の通路が、存在しているかもしれないというような夢想は、私たちの多くが、子供の頃、なんとなく考えたのではないかと思われます。秘教的なアイディアにおいても、そのようなことが語られたりもします。
それらは、ある意味、私たちの心の奥底にある何かしらの構造を投影したものであると、考えることもできるわけです。そして、私たちが、ボルヘスを読む快楽とは、彼の作品にある、無限の宇宙を凝集したような高圧点を、意識的に味わうところにあることを考えると、それは示唆に富む事柄でもあるわけなのです。無辺にひろがる宇宙的な意識と、局所的で、場所的な日常意識との間に、結合や振幅的往還をもたらしたいという、私たちの渇望を、ボルヘスが表現してくれていると、考えることもできるわけなのです。

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

 

◆リルケの怖るべき天使


彼は、ドゥイノの海岸での或る体験によって、この詩を書きはじめました。ところで、彼は、自作の翻訳者フレヴィチに宛てた、有名な手紙の中で、この詩について、大変興味深いことを述べています。

「悲歌においては、生の肯定と死の肯定とが一つのものとなって表示されております。
その一方のもののみを他方のものなしに認めることは、我々がいま此処でそれを明らかにするように、すべての無限なるものを遂に閉め出してしまうような限界を設けることであります。死は、我々の方を向いておらず、またそれを我々が照らしておらぬ生の一面であります。かかる二つの区切られていない領域の中に住まっていて、その両方のものから限りなく養われている我々の実存を、我々はもっとはっきりと認識するように努力しなければなりません。……人生の本当の姿はその二つの領域に相亙っており、又、もっと大きく循環する血はその両方を流れているのです。そこには、こちら側もなければ、あちら側もない。ただ、その中に『天使たち』―我々を凌駕するものたち―の住まっている、大きな統一があるばかりなのです」(堀辰雄訳)

ここで語られている体験領域が、単なる内部表象のひとつだとしても、日常意識のものではない(それでは処理しきれない)、ある種の圧倒的な変性意識的な世界だとは類推できるのです。それは、生と死をひとつと見なすような(当然、私たちの日常意識は、それらを別々に見なしているわけですが)、無限なる体験領域の世界であるわけです。また、論理的に考えてみると、その体験領域は、私たちの日常意識を、その下位の一部に含むような上位階層の世界だと類推することができるわけです (天使云々をいうのですから)。
そしてまた、このような階層(体験領域)の侵入といった「怖るべき」圧倒的な事態が、リルケに限らず、世界中の諸々の変性意識の事例を見ても、さまざまな形態で起こっていることが分かるのです。リルケの場合においては、長年に渡る探求と経験により、そのことが見事にとらえられ、統合的に成就できたのだといえるのでしょう。

ケツァルコアトルに寄せるオード

 

◆底打ち体験と白い夜明け

さて、俗に、底打ち体験、底つき体験などと言われている体験があります。人が、長い期間に渡り、心の落ち込みや鬱から逃れられずに、先の見えない魂の暗夜を、悶々と過ごした果てに、ふとなぜか、下降の底に行き当たってしまうという体験です。底なしだと思っていた状態に、底があったわけです。明けない夜が、明けたわけです。心の下降を行ききった果てに、底を打ち、魂の奥底から、何かが浮上していたことに、気づくわけです…
さて、そのような経験は、このような言葉が、一般の言葉にあることから考えても、人々の人生経験の中で、類型的に存在していることがうかがえるものです。
デイヴ・ビクスビーの歌の数々は、ビクスビーが、ドラッグ中毒から抜け出ることを通して感じた恩寵が、赤裸々かつ清冽に、歌われたものとなっています。そして、実際のところ、この作品におけるほど、暗黒の中から抜け出た時の、黎明の感覚を、見事に造形した作品も、他にないといっていいのです。その白い夜明けを、はじめての朝の感覚を、奇蹟的に描けた作品となっているのです。それは才能ばかりでなく、ビクスビー自身が、心の切実さ(切迫)から、その経験の意味を結晶させることを強く願ったからだと思われるのです。

 

 

機動戦士ガンダムDVD-BOX 1

 

◆ニュータイプと拡張する未来的身体

『機動戦士ガンダム』は、この初回作品と、その玩具が一世代の熱狂を引き起こし、シリーズ化されていったものです。ところで、ストーリーの中では、物語の展開にしたがって、軍事兵器としてのモビルスーツは、次々と高機能化し、進化していくわけですが、興味深いことに、その進化に並行して、物語の終盤には、進化したパイロット(ニュータイプ/超能力者)も、現れて来るという設定となっていることです。ストーリーの設定としては、偶然、特殊進化(超能力化)してまったパイロットに合わせて、進化させたモビルスーツが、作られたということです。宇宙空間に出た人類が、自然に進化していった結果、というイメージです。
しかしながら、通常、このような生物の能力進化とは、環境と生体との相互作用の結果であり、どちらかが原因であるとは、一概に限定できないものでもあります(まだ謎が多いのです)。フロー体験に見られるように、環境と、表出(表現)と、内容(生体)との、ギリギリの極限的な相互フィードバックの中で、その能力が開花(進化)して来るものでもあるのです。
つまり、物語の設定に即していえば、宇宙空間における戦争・戦闘という極限状態の中での、拡張された身体(モビルスーツ)と、内容(パイロットの知覚力・意識)との、高度的な相互フィードバックの中で、能力開花が生成して来たとも、言うことができるのです。
そのため、モビルスーツがなければ、ニュータイプも生まれなかった。
こう考える方が、面白いと思います。
宇宙空間を、高速で稼働する、機械の身体があったからこそ、知覚能力の進化が、加速されていったというわけです。
フロー体験について分析されるように、通常、私たちは、挑戦的な、困難な状況の中での、的確な(拡張された)身体活動によって、知覚力や意識が拡張されていくわけです。
そのような事柄が、この物語作品の中では、一定の納得性をもって描かれたために、一見無理やりで荒唐無稽にも見える、ニュータイプの設定が、表現としての強度を持ちえたと考えられるのです。
そして、そのことは、決してアニメの中の絵空事ではなく、私たちの人生における、能力拡張・意識拡張に、ヒントとなっていく事柄でもあるのです。そのような点が、この作品が、あまり古びない要因でもあるように思われるのです。


チリの地震---クライスト短篇集 (河出文庫)


クライストの作品は、とても不思議な作品です。そこにおいては、何か得体の知れないものが、凄まじい速度で、通過していきます。過度に結晶したような、硬質な文体の向こうに、にわかに、それとはとらえがたい、熱狂的な強度や速度、変性意識的な何かが、通過していくのです。焼き尽くすように、通過していくのです。そして、私たちは、それらを読み終わった後に、その火傷を感じつつ、「あれは何だったのだろう」と、思いを巡らせるわけなのです。
ところで、クライスト本人が、どのような方法論のうちに、そのような作品を書いていたのか、筆者は知らないのですが、それらが偶然そうなったわけではなく、(明確な方法論ではないかもしれませんが)ある種の気づきawarenessのうちにあったのだと、教えてくれる、素晴らしい文章を、彼は、残しているのです。本書に収められている『マリオネット芝居について』という短編がそれです。このテーマに関して、この一編をものしたことから考えても、クライストが、そのテーマの重要性について、明確に意識していたことが、うかがえます。これは、心(意識)の進化と存在をめぐる、とても核心的なテーマでもあるのです。

「さて、すばらしき友よ」、C.氏は言った、「これで私の申し上げることを理解するのに必要なものはすべてお手許にそろいました。これでおわかりですね、有機的世界においては、反省意識が冥く弱くなればそれだけ、いよいよ優美がそこに燦然とかつ圧倒的にあらわれるのです。―けれどもそれは、二本の直線が一点の片側で交差すると、それが無限のなかを通過したあと突然また反対側にあらわれる、とか、あるいはまた凹面鏡に映った像が無限の彼方まで遠ざかったあとで、突然私たちのすぐ目の前にきている、とかいうふうにしてなのです。このように認識がいわば無限のなかを通過してしまうと、またしても優美が立ちあらわれてきかねないのです。ですから優美は、意識がまるでないか、それとも無限の意識があるか、の人体の双方に、ということは関節人形か、神かに、同時にもっとも純粋にあらわれるのです。」「とすると」私はいささか茫然として言った、「私たちは無垢の状態に立ち返るためには、もう一度、認識の樹の木の実を食べなければならないのですね?」「さよう」と彼は答えた、「それが、世界史の最終章なのです」
(本書より)

 

 

 

 

 

 

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