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著作紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』

 

ここでは、拙著の紹介をしたいと思います。

※現在、特価中です。

 

『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』

 (電子版 or 書籍)

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本書の内容やテーマは、

サイトの記載と一部重なるものですが、

より深く遠大な、

トランスパーソナル(超個)な事柄まで含めて、

心の全体性の探求と実践法が、

描かれています。

 

サイトの内容が顕教的だとすると、

本書では、より密教的な側面までも含めて、

多次元的なリアリティが解説されています。

 

各種の方法論(ゲシュタルト療法、夢見の技法、野生の(気づきの)技法、英雄の旅、人格変容の行きて帰りし旅等)や、

変性意識体験(人生回顧体験、クンダリニー体験、聖地体験の事例等)について、

実体験を踏まえた考察がめぐらされています。

 

現代の世間一般に知られるものより、

深くリアルなレベルで、

変性意識や意識拡張の実態、

トランスパーソナル(超個)的な次元の様相、

人格変容のプロセス、

存在の未知の状態(エクスタシィ)、

人生と宇宙の彼方について、

知りたい方にとっては、

ご参考いただける内容となっています。

 

日本語で書かれたこの手の書籍で、

実体験に即して、このように彼岸(此岸)のことを、

精緻に書き記したものも少ないないので、

この人生〔魂〕の謎を解いていきたいと、

真摯に考えられている方にとっては、

生涯に渡って、役立てていただける内容と、

なってます。

 

以下は、本文からの抜粋です。

 

 

『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』


はじめに

 本書は、心理療法や変性意識状態を素材として、私たちの心が持つ、多様な可能性について考察を行なったものである。副題の「現代的エクスタシィの技法」とは、エリアーデの著書『シャーマニズム』の副題『エクスタシィの古代的技法』より来ている。本書に、心理学的なアプローチによる、エクスタシィ(意識拡張)の技法を見出そうという目論見があるからである。そのため、本書においては、意識の変異した状態や、無意識の自律的な機能を中心に、私たちの心が持つさまざまな能力について検討が行なわれている。そして、自然的な創造性が、私たちを導いていく精神の諸領域についても、その展望を見ている。本書を貫く主題は、気づき、変性意識状態(ASC)、心身の拡充的な統合といったものである。

 第一部と第二部では、「気づきの技法」と題して、心理療法の一流派であるゲシュタルト療法を取り上げている。ゲシュタルト療法は、現在では人間性心理学に分類される、心理療法の流派であるが、その原理や効果の実態を見ると、治療目的の心理療法だけに限定されない多様な要素を持つものだからである。また、その実際のセッション体験は、私たちの心の持つ能力や可能性について、さまざまな事柄を教えてくれるものだからである。ゲシュタルト療法は、健康な人が、自己の心を探索し、創造力や才能を発掘する技法として、効果を望める面が強いのである。それゆえ、流派の創始者パールズは、ゲシュタルト療法の原理が持つ普遍性を強調するために、自身をゲシュタルト療法の創始者ではなく、再発見者にすぎないと表現したが、それも、あながち言い過ぎともいえない面があるのである。ゲシュタルト療法の実践が持つ原理は、禅をはじめ、世界の瞑想技法とも多くの共通点を持つものなのである。また特に、実践のなかで育って来る、気づきawarenessの能力は、重要な要素となっているものである。その能力は、精神を探求する諸流派の方法論と呼応しつつ、治癒効果にとどまらない、意識拡張の可能性について、さまざまな事柄を、私たちに教えてくれるのである。実際のところ、ゲシュタルト療法を、古今東西にある気づきの技法に、心理学的技法を加えた方法論として見るという、別の見方をすることも可能なのである。そのように見ると、さまざまな介入技法を持つ、ゲシュタルト療法の利点も見えやすくなって来るのである。そのため、本書のゲシュタルト療法についての記述は、必ずしも、教科書的な解説に準じない面や、心理療法としての注意点を省いている面もあるが、それは、そのような本書の狙いのためである。本書では、意識や心身の能力を拡大する、気づきの技法として、ゲシュタルト療法の可能性を検討しているのである。

 第三部では、変性意識状態Altered States of Consciousnessを取り上げて、その体験のさまざまな様相を見ている。変性意識状態とは、意識の変異した状態であるが、それは、普段の日常意識では、あまり知ることのできない、さまざまな体験領域について教えてくれるものである。ここでは、具体的な事例を交えつつ、そのような意識状態の諸相について見ている。

 第四部では、夢見の技法と題して、夢を取り扱う、さまざまな方法を取り上げている。夢は、無意識(潜在意識)の自律的な智慧であり、私たちの意識に、必要な情報をもたらす生体機能である。また、その夢に対して、相応しい表現を、生活の中で与えていくことは、私たちの心身に拡充をもたらす、重要な方法論となっているのである。

 第五部では、私たちの自然的な(野生的な)能力を回復するという観点から、さまざまな具体的技法を、取り上げている。それらは、潜在能力の開拓や、生きる力の獲得という面からも、有効な実践技法となっているのである。

 第六部では、以上のまとめとして、心理学的な人格変容を通した、私たちの意識拡張の内実について見ている。神話的なモデルなどを参照しつつ、私たちに、存在の拡充をもたらす実践のあり方を検討している。
 

目次

はじめに

第一部 気づきの技法Ⅰ ゲシュタルト療法 基礎編

第一章 ゲシュタルト療法とは 
第二章 気づきの3つの領域
第三章 ゲシュタルトの形成と破壊のサイクル 
第四章 未完了の体験
第五章 複数の自我
第六章 葛藤
第七章 心身一元論的・全体論的アプローチ
(コラム)
・ライヒとボディワーク系心理療法

第二部 気づきの技法Ⅱ ゲシュタルト療法 実践編

第一章 セッションの原理・過程・効果 
第二章 エンプティ・チェア(空の椅子)の技法
第三章 心身一元論的アプローチ
第四章 夢をあつかうワーク
第五章 心理的統合の姿

(補遺)

・セッションにおける通過儀礼とコミュニタス
(コラム)
・アウトプットとゲシュタルト療法
・存在力について

第三部 変性意識状態の諸相

第一章 変性意識状態とは
第二章 呼吸法を使った変性意識状態
第三章 人生回顧体験
第四章 蛇の火について
第五章 大地の共振
(コラム)
・残像としての世界 映画『マトリックス』の暗喩

第四部 夢見の技法

 

・夢見とは
・気づきと夢見
・心理療法と夢見
・夢見における集中状態
・創作的形式の利用
・創作過程とシャーマニズム的構造
・創作の体験過程
・体験の増幅と凝集
・明晰夢の利用

 

第五部 野生と自然

第一章 シャーマニズム的な姿勢
第二章 野生の気づき
第三章 狩猟的感覚
第四章 裸足の歩み
第五章 底うち体験と潜在力の発現
第六章 戦士の道と平和の道
第七章 伝統的シャーマニズムについて
第八章 道化の創造性
第九章 アウトサイダー・アートと永遠なる回帰

第六部 行きて帰りし旅

第一章 心理学的に見た変容のプロセス
第二章 英雄の旅
第三章 野生的エクスタシィの技法

参考文献

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

第二部 第五章 

 

1.玉ねぎの皮むき

 

………………………………………………

 

さて、オーセンティック・セルフ(本来の自己)とは、ゲシュタルト療法の中では、自己表現に関する階層モデルの中で使われている概念(仮説)である。それは、きわめてシンプルな仮説である。モデルの図柄としては、同心円状の輪(層)が、ひとつの核を中心にひろがっている円形図表である(五層一核)。その中心の核にあるのが、オーセンティック・セルフと言われるものである。五つの層(レイヤー) の外側には、決まり文句の層、役割演技の層といったような、私たちの、日常的で表面的な、自己表現の階層があるのである。その下に若干葛藤を含んだ層(行き詰まりの層)が存在し、五層の一番内側(奥)の層には、爆発の層というものがあり、これが、真正な自己表現の階層となっているのである。そして、その下に、原初的で、情動的な、オーセンティック・セルフ(本来の自己)というものがあるのである。つまり、オーセンティック・セルフとは、そこに潜在していると仮定される、自律的で生なエネルギー、感情エネルギーを指しているだけなのである。そして、この奥深い核のエネルギーから、自発的な奔流として、充分表現的に生きられることを、ゲシュタルト療法では目指すのである。一番深い心情から、統合的に生きられている充実的な在り方を目指すのである。そして、人が、自己一致して、肚の底から湧いてくる自分の本心を表明できている時、また、それを味わいつつ、その感情(欲求)で、他者と関わることができている時、人は本来の自分(オーセンティック・セルフ)を生きているといえるのである。

 

また、実感レベルでいうと、葛藤や、未完了の体験によって被われている心というものは、奥底にある深い感情(欲求)に、自分でも充分接触できていないし、自由に表現もできないという、不全な感覚を持っているものである。そのため、ワーク(セッション)によって、この外皮のような防壁が薄くなり、葛藤がなくなっていくと、私たちの、本来の感情(欲求)が、心の底から、湧き水のよう速やかに、直接流れ出すようになって来るのである。それは、生きる上での大いなる歓び、エクスタシィ(生の充溢)とも感じられるのである。そのため、その状態を獲得するために、人格システムの硬化をなくし、人格の肯定的・積極的能力を高めていくことが、ゲシュタルト療法の、日々の取り組みとなるのである。

 

 ところで、長年、ゲシュタルト療法を続けていくと、人生の大きな妨げ(制限・苦痛)となっていたような、葛藤や人格の外皮は、消失していくものである。ゲシュタルト療法においては、未完了の体験がなくなると、それらに妨げられることなく、「今ここを十全に体験できるようになる」と言われる。つまり、感情的なノイズや、歪んだ自意識に妨げられることなく、今ここの体験(感覚、感情、欲求)をありのままに体験できるようになるというのである。そして実際、そのような状態は、おおよそ達成されて来るのである。

 

(つづく)

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

第三部 第二章 呼吸法を使った変性意識状態

 

(中略)

ワークは、二人で一組を組んで行なっていく。ワークをする本人(ブリーザー)と、それをサポートするシッターとに、役割を分けて行なうのである。一人のワークが終わったら、役割を交替するのである。1回のワークは、大体、一人1時間から数時間かけて行なわれるものである。

さて、ワークの時間中、ブリーザーが行なうことといえば、ただ呼吸することだけである。大音響で音楽が流れる中、深く速い「過呼吸」を行ない続けて、内部から生起して来る体験過程に、身を委ねるだけである。ただ気づきをもって、体験過程を見つめていくだけなのである。その中で、深層からの体験過程が、自然に生起して来るのである。自己の深奥から、プロセスの起承転結が、ごく自然に起こって来るのである。ブリーザーとしては、その変性意識状態の中で、過呼吸することを忘れずに、滾々と生起して来る深い感情や体験内容の表出を見守りつつ、気づきと洞察を深めていくのである。(中略)

 

セッションでは、このように、ごく自然な形で、プロセスが生起して来て、事態は完了を迎えるのである。この症状的な発現と、体験過程の起承転結は、ブリーザー本人にとって、とても必然的で、無理のない形で起こって来るものである。それは、生体の生理現象的・生物学的な内情を、痛感させる類いのものなのである。そのため、実際にセッションを体験してみると、自分の深層にある〈自然のプログラム〉というものに、深い感銘を受けることとなるのである。そこに、奥深い生命の自律性と明確な意思を感じ取るからである。さて、それでは次に、そのような、ワークの経過における、ブリーザーの主観的な気分の推移を記述してみたい。

まず、ワーク開始直後の、最初の時間帯は、意識レベルでは、この体験過程がどこに向かっているのか、まったく予測がつかない状態である。意識も、まだほぼ日常意識に近い状態にある。しかし、呼吸を続けつつ時間を経るに従って、体内の精妙な感覚にもだんだんと慣れ、進展する生理的変化に、少しずつ気づきはじめるのである。そして、薄らぐ意識の底で、この体験過程は、生理的に、奥深い必然的な力に導かれていると直観しはじめるのである。(中略)

 

さて、以下に記す事例の時点では、既に何回かのブレスワークを行なってはいた。しかし、これといって、特筆すべき経験を得てはいなかったのである。そのため、この時のセッションにおいても、さしたる期待もなく、現れて来る体験過程を、ただ観察していこうと考えていただけであった。

 

……………………………

………………………

…………………

 

いつものように、

音楽に気を紛らわし、

過換気呼吸に、

集中していく…

 

過換気自体は、

不快なだけ、

苦しいだけ、

といってもいい…

 

探索するよう、

手さぐりするよう、

感覚と手がかりを求め…

呼吸を続けていく…

 

…………

………………

熱気が高まってきて…

顔や皮膚に、

ちりちりと、

蟻が這うよう、

痒さが走る…

 

茫漠とした不安に、

さきの見えない、

不快感が、

つのっていく…

 

呼吸に集中し…

気づきを凝らし…

内側から、

深層のプロセスが、

生起して来るのを、

見つめている…

 

光の斑点が、

眼の裏に、

交錯し、

輪舞する…

 

どのくらい、

経ったのか…

汗ばむ熱気の中、

苦しさは薄まり…

痺れとともに、

遠いところから、

満ちて来る、

生理の、

深いざわめきに、

気づく…

 

呼吸を続け、

その波を、

増幅し、

持続させることに、

集中する…

 

いつものよう、

手足のさきが、

痺れはじめ…

熱気の中、

斑らに現れる、

奇妙な汗ばみ…

冷たさの感覚… 

 

とりとめのない、

記憶や映像が、

夢の破片ように、

去来する…

 

どこへ向かっているのか、

予想もつかない…

しかし、

何かが、

満ちて来る気配…

 

内側の遥かな底に、

荒れ騒ぐよう、

何かが高まり、

生起する感覚…

 

呼吸を続け…

意識が、

途切れがちになる…

呼吸を保ち…

意識をただし…

気づきを凝らし…

 

………………………

………………

…………

 

どのくらい、

時間が経ったのか…

明滅する意識の向こうに、

ふと気づくと、

そこに、

 

「胎児である自分」

 

がいたのである…

 

それは、

記憶の想起ではなく、 

今現在、

今ここで、

「胎児である自分」

なのであった… 

 

感じとられる、

肉体の形姿が、

からだの輪郭が、

いつもの自分とは、

完全に違っている…

 

巨大な頭部に、

石化したよう、

屈曲した姿勢…

激しく硬直する、

腕や指たち…

 

手足のさきが、

堅く曲がり、

樹木のよう、

奇妙な形に、

ねじくれている…

 

からだ全体が、

胎児の形姿、

姿勢である…

 

そして、

気づくのは、

今ここに、

自分と重なって、

「その存在がいる」

という、

圧倒的な、

臨在の感覚である…

その存在の、

息吹である…

 

それは、

自分自身である、

と同時に、

かつて、

そうあったであろう、

「胎児である自分」

との二重感覚、

だったのである…

 

「いつもの自分」

の意識と、

「胎児である自分」

の感覚(意識)とが、

二重化され、

同時に、

今ここに、

在ったのである…

 

分身のよう、

多重化された、

肉体の、

感覚の、

意識の、

圧倒的に、

奇妙な現前が、

在ったのである…

 

そして、

ふと気づくと、

手足は、

異様なまでの、

硬直の激しさである…

 

その筋肉の凝縮は、

普段の人生の中では、

決して経験しない類いの、

岩のような硬直と、

巨大な圧力である…

 

自分の内部から、

このように、

途方もないエネルギーが、

発現している事態に、

驚いたのである…

 

肉体の深い層から、

生物学的で、

火山的なエネルギーが、

顕れていたのである…

 

………………

…………

 

何の感覚か…

まとわり、

ぬめるよう密閉感… 

粘膜のよう、

煩わしい、

冷たい汗ばみ…

奇妙な匂い…

 

内奥に、

深く凝集し、

細胞的に遅延する、

時間の感覚…

生理的な、

生物的な、

渇き…

 

胚のよう、

種子のよう、

濃密に凝縮する、

発熱の、

震え…

 

暗闇に、

ぼうと浮かぶ、

輝くような、

始源の感覚…

宇宙的な、

未明の、

けはい…

 

肉と骨の奥処に、

岩のよう、

苛烈な硬直の、

軋み…

 

烈火のよう、

力のエネルギーが、

尽きることない、

火力が、

終わることなく、

滾々と、

放出されていたのである…

 

………………………………

………………………

 

さて、このような体験過程が、過呼吸を続ける中で、ごく自然に生起して来て、進行していったのである。

 

(つづく)

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

第三部 第三章 人生回顧体験

 

◆人生回顧体験

 

民間伝承などではよく、人は死ぬ直前に、「自分の全人生を、走馬燈のように回顧する」といわれる。人生回顧(ライフ・レビュー)体験とは、そのような体験のことである。この現象は、臨死体験者の事例報告が収集されるようになってから、そのような現象が、比較的高い頻度で起こっていることが、確認されるようになったことでもある。臨死体験研究のケネス・リング博士によって作られた測定指標の中でも、臨死体験を構成する特徴的な要素として、一項目が採られているものである。

 

さて、過去に見られたさまざまな事例からすると、この体験は、突発的な事故などの、何かしらの生命危機に際して、遭遇しがちな体験となっているものである。しかし、実際に瀕死状態にならずとも、その危機を判断することの中でも起こるようなので、緊急時における、何らかのリミッター解除が原因となっているのかもしれないのである。筆者の場合は、特に急な事故でもなく、普段の生活の中で、この変性意識状態に入っていったのである。しかし、多くの事例を仔細に見ると、危機的状況による過度な内的圧力(ストレス)が、そのきっかけになることが考えられたので、筆者にあっても、何らかの過度な圧力が、その原因になったと類推されたのである。

 

◆体験内容

 

さて、その体験は、普通に街を歩く中で、突然、訪れたものであった。当然そのような出来事が、自分の身に起こることなど予期していなかったのである。そして、起こった後も、それをどうとらえてよいのか、苦慮したのである。その体験が起きた時は、気分の悪さを抱えながらも、普段どおりに市街を歩いていただけであった。

 

…………………………………

…………………………………………

 

重苦しい気分で、通りを歩いている。

暗い感情が波のように、心身の内を行き来するのがわかる。

煮つまるような息苦しさ。

あてどない、先の見えない苦痛に、想いをめぐらせていた、とある瞬間、

ある絶望感が、ひときわ大きく、

塊のようにこみ上げて来たのである。

内部で苦痛が昂まり、過度に凝集し、限界に迫るかのようである。

自分の内側で、何かが、完全にいき詰まり、

行き場を失ったのを感じたのである。

その時、

固形のような感情の塊が、たどり着いた、

後頭部の底で、

「砕け散る」のを、

感じたのである。

物体で打たれたような衝撃を感じ、

視像の中を、

透明なベールが、左右に開いていく姿を、

知覚したのである。

内的な視覚の層が、

ひらいていく姿だったのかもしれない。

奇妙な知覚状態に、

入っていったのである…

 

見ると、

随分と下方に、

遠くに(数十メートル先に)、

「何か」があるのが見えたのである。

何かクシャッと、

縮れたもののようである。

よく見てみると、

そこにあったのは、

(いたのは)

 

数日前の「私」であった。

 

正確にいうと、

「私」という、

その瞬間の自意識の塊、

その風景とともに、

その瞬間の人生を、

「生きている私」

がいたのである。

 

たとえば、

今、私たちは、

この瞬間に、

この人生を生きている。

 

この瞬間に見える風景。

この瞬間に近くにいる人々。

この瞬間に聞こえる音たち。

この瞬間に嗅ぐ匂い。

この瞬間に感じている肉体の感覚。

この瞬間の気分。

この瞬間の心配や希望や思惑。

この瞬間の「私」という自意識。

これらすべての出来事が融け合って、

固有のゲシュタルトとして、

この瞬間の「私」という経験となっている。

 

さて、その時、

そこに見たものは、

それまでの過去の人生、

過去の出来事とともにある、

そのような、

瞬間の「私」の、

つらなりであった

 

各瞬間の、

無数の「私」たちの、

膨大なつらなりである。

それらが時系列にそって、

そこに存在していたのである。

 

瞬間とは、

微分的な区分によって、

無限に存在しうるものである。

そのため、そこにあったのも、

瞬間瞬間の膨大な「私」たちが、

紐のように、

無数につらなっている姿であった。

 

それは、

遠くから見ると、

出来事の瞬間ごとのフィルム、

もしくはファイルが、

時系列にそって、

映画のシーンように、

沢山並んでいる光景であった。

 

そして、

そのフィルムの中に入っていくと、

映画の場面の中に入り込むように、

その時の「私」そのものに、

なってしまうのであった。

 

その時の「現在」、

その瞬間を生きている「私」自身に、

戻ってしまうのであった。

その瞬間の「私」を、

ふたたび体験できるのである。

 

主観として得られた、

過去の「私」の情報のすべてが、

そこにあったのである。

 

………………………

 

そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない、無数の洞察を、閃光のように得ていたのであった。そして、この時即座に言語化されて、理解されたわけではなかったが、この風景の姿から、直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのであった。

その内容を論点によって切り分けると、おおよそ以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で、言語化され、整理された要素である。

1.箱庭的な自意識

まず、この体験の光景で、真っ先に直面させられたのが、自分の「小さな自意識」であった。これは自分の自意識の中身を、外側から視ることによって、赤裸々に示されたことである。瞬間瞬間に、自分がどんなに些細なことに囚われ、こだわって生きているかを、突きつけられた感じであった。通常、私たちは、雑念が高速で去来する、意識の流れなどには、無自覚である。しかし、この光景の中では、それらのプロセスが、静止画のように、そこにあったのである。箱庭のような自意識の無明性である。そして、瞬間瞬間の「私」とは、その場その場の置かれた状況によって、かなり自動反応している機械仕掛けのような存在なのであった。そのことを、自分の自意識を外から視るという、いささか気乗りのしない映像により、見せつけられたのであった。

 

2.自意識の非連続性

通常、私たちは自分の自意識、「私」というものを、主観的には、時間を超えて連続している、単一の存在だと感じている。しかし、この体験で見た風景の中では、「私」というものは、瞬間瞬間に、その場の出来事として生起しており、連続している単一の存在(主体、実体)などでは全然なかったのである。その時その時の、思念や情動の偶然的な結びつきによって、編まれている情報の塊であった。「私」という連続性や単一性は、実体ではなく、むしろ表象機能のひとつとして、仮象として、分泌されているようであった。そして、「私」というものは、自分自身に対して、統御することも、気づくこともできていない存在であり、自己の「主体」などでは全然なかったのである。

 

3.全開された生の姿

その一方で、この小さな箱庭的な自意識の、反対の極として暗示され、示唆されていたのは〈ありうべき生の姿〉であった。

瞬間瞬間の生を、自意識のゲームではなく、自己のまったき解放として、極限までの自由として、「行動をもって、果てまで生き抜け」と、この光景は告げているようなのであった。

その自由を生きることこそが、この生の成就、この生を生きる意味、この生を〈真の実在〉たらしめる成就であると言うかのようにである。あれこれ顧慮することに価値はない。物理的な行動をもって、解放を実現すること、自由を実在させること、そのことこそが重要であると告げているようであった。

「自分自身であること」を極限まで、可能なかぎり生き抜くこと。果てまで生ききること。

それこそが、生の成就であり、人生の唯一の肝要事であると、告げているようであった。

また、この風景の中では、世俗的、人間的な価値観は、完全に無化されてもいた。

この世間で、何かを成し遂げるとか、成功するとか、さらには生活で喰っていくとか、そんな人間的なゲームは、この人生の成就(実在化)となんの関係もない。それは副次的なこと、ついでのことに過ぎないと。むしろ、世間的には、没落することの方が、はるかに実在に触れられる可能性さえあるのだと。いずれにせよ、肝心なのは、極限までの自由を、彼方まで非妥協的に生き抜けるか否かである。そのような容赦ないメッセージが、そこには含まれているようであった。

そこには、「することDoing」に対する「在ることBeing」の絶対的な優位が、示されていたのであった。

 

4.人生という通り道

さて、そこには、目の前に、全「人生」が横たわっていたわけであったが、その光景はまた、「この人生」という道を通らずには、それを避けては「先に進めない」ことも告げているようであった。逃げることや途中下車などはできない。自殺などして、逃げ出そうとしても無駄であると。人生を逃げ出すことなどできないのである。

もし、この先に、別のところに行きたいのなら、

むしろ、

「この道(人生)を通っていけ」

「この道(人生)を向こう側へ突っきれ」

「この人生を生ききれ」

それしか道はない、それこそ最良の道なのだと、この光景は告げているようであった。

 

5.「共有された人生」

通常、私たちは、自分の中の想念や思念というものを、「私」という独自の感覚を、自分だけの、孤独な、究極の秘密であり、その内実を、決して他人に知られることはないものだと思っている。「私の内界は、私だけのものである」と自明に思っている。

しかし、この体験の風景においては、この筆者の全人生の「私」がそこにあった。すべての「私」がそこにあったのである。

すると、奇妙な閃きを得たのである。

この人生は、「自分だけのものではない」という感覚である。

もし誰かが、この「すべての私」の情報(フィルム)にアクセスすれば、「私」の情報(フィルム)に入っていけば、誰もが、筆者の人生そのものを主観的に体験できるのである。いや、筆者そのものになれるのである。筆者そのものになってしまうのである。 

私たちの「人生経験」とは、宇宙の共有財産なのかもしれない。

そのような奇妙な直観を持ったのである。

 

……………………………………………… 

さて、じきにこの変性意識的な視像は終わり、普通の街なかを歩いている、普段の自分に戻ったのである。

この体験自体は、物理的な時間にすれば、おそらく数秒間の出来事ではないかと思われた。

しかし、意識の底における時間の経過は、それよりもずっと長く感じられていたのであった。襞をなす映像を分け入る中での、時間の緩やかな遅延と延長があったのである。

 

記憶がほどける中で、川底を透視するかのような、多層的な時間風景があったのである。

 

 

(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

第三部 第四章 蛇の火について

 

 

(中略)

……………………………………

 

 

◆白光

 

「…」

 

「……」

 

「…………」

 

「やって来る」

 

「やって来る」

 

「やって来る」

 

「噴出の」

 

「来襲の」

 

「白色の」

 

「閃光」

 

「ロケット噴射のよう」

 

「凄まじい速度で」

 

「白熱し」

 

「貫き」

 

「横ぎる」

 

「未知の」

 

「まばゆさ」

 

…………………………………………

……………………………

………………………

 

「凄まじい閃光が」

 

「一瞬に」

 

「走破する」

 

「宇宙的な」

 

「超自然の」

 

「火柱のよう」

 

「巨大な」

 

「白の」

 

「延焼」

 

……………………………

………………………

………………

 

「霊肉を」

 

「物心を」

 

「昼夜を」

 

「透過し」

 

「貫き」

 

「蹂躙する」

 

「急襲する」

 

「謎の」

 

「まぶしい」

 

「獰猛」

 

「存在の」

 

「芯を」

 

「焼きはらい」

 

「彗星のよう」

 

「彼方へ」

 

「拉し去る」

 

「まばゆさの」

 

「弾道」

 

 

 

 

「けばだつよう」

 

「遥かに」

 

「恍惚する」

 

「白の」

 

「君臨」

 

………………

……………

…………

………

 

 

 

 

「熱エネルギーの」

 

「光輝のよう」

 

「暑い」

 

「残照」

 

「火の」

 

「余燼」

 

「物質の芯を」

 

「熔かすよう」

 

「膨満する」

 

「核の」

 

「まぶしさ」

 

「放射能の」

 

「ちりちりと」

 

「熱い」

 

「臨在」

 

「白痴のよう」

 

「飽和し」

 

「実在の向こうに」

 

「熔けるよう」

 

「惚けていく」

 

……………………………

………………………

………………

…………

 

 

◆未知のエネルギー

 

  それは、一種のエネルギー的体験であり、俗にヨーガでいう、クンダリニー体験と呼ばれるものに分類されるであろう出来事であった。尾骶骨あたりにつながるどこかの亜空間からか、物質と精神を透過する、凄まじくまばゆいエネルギーが噴出して来たのである。謎めいた、稲妻のような白色のエネルギーである。それが肉体と意識を透きとおし、未知の宇宙的状態をもたらす、ある種の極限意識的・変性意識的な様相を呈したのである。

 後になって思い返してみると、たしかに予兆となる現象はいくつかあったのである。しかし、当然ながら、このような事態につながるとは、予期していなかったのである。そして、体験直後のしばらくは、あたかも放射能に焼かれたかのように、奇妙な熱感が、心身にこびりつき、とれない状態であった。そこには何かしら、物質と意識の両域をひとつにしたような、変性意識的で、微細なエネルギーの余燼があったのである。

 しかし、実際のところ、この体験がより怖ろしい影響を持ちだすのは、この体験より後の、長い歳月を通してであった。その影響とは、日々の生活の中で、間歇的に訪れてくる、奇妙なエネルギーの浸潤ともいうべき体験であった。ゴーピ・クリシュナの著作にあるような、苦痛きわまる、困難な体験だったのである。

 

 

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……………………………

……………………

 

「どこからか」

「実在の向こう」

「彼方の亜空間」

「からか」

「やって来る」

「漆黒の」

「放射能のよう」

「冷たい」

「高熱」

 

「洩れ射す」

「影の」

「光子たち」

「骨に滲みこみ」

「割いてくる」

「胆汁のよう」

「にがい」

「荒廃」

 

「悪寒のよう」

「虚脱し」

「神経を」

「蝕み」

「焼いてくる」

「まばゆい」

「痛さ」

 

「神経の」

「銀箔を」

「喰いちぎり」

「熔かしてくる」

「白い」

「日蝕」

「痛苦の」

「痺れ」

 

「冥府の」

「漆黒の昏睡に」

「意識を」

「熔かすよう」

「虚空の」

「まぶしさ」

 

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……………………

………………

………

 

「そこでは」

「眠りの」

「最奥でさえ」

「燦然とかがやく」

「蝕の太陽」

 

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………………

…………

 

「神経的な減耗に」

「筋無力的な陥落に」

「痛苦と陶然」

「骨と神経が」

「焦げつき」

「熔け落ちるよう」

「灰燼になる」

 

「恍惚と覚醒」

「天国と地獄が」

「ひとつである」

「冥府の」

「薄くらがり」

 

「遥か」

「底の方では」

「汀をなし」

「透過してくる」

「半睡の滴」

「銀紙の」

「破れた味に」

「漏れだすよう」

「真白い蝕の」

「裸の舌」

 

……………………………

…………………………

……………………

 

その状態が訪れると、肉体の芯に力が入らなくなり、筋無力症的に脱力していくのであった。神経を焼かれるような痛さと、硬直的な痺れが現れ、主体的な意志の行使や、集中した行為が難しくなるのである。意欲そのものが萎え、減耗していくようであった。滲みて来るエネルギーによって、神経が、白銀的な苦痛に苛まれる中、(脳は光量に麻痺し)時をやり過ごすしかなくなるのである。意識の背後が、あたかも口を開けたかのように空間を開き、光が照射され、とらえがたい極微な情報が行き来するのであった。そして、苦痛でまばゆいエネルギーに透過される中、それらの謎を凝視しつつも、地衣類のように、その宇宙的発熱に耐えるしかなかったのである。いくらかでも、状態を統御する手がかりを得ようと奮闘するも、徒労を繰り返すばかりであった。浸潤する苦いエクスタシィに抗しつつ、注視を凝らすしか、すべがなかったのである。

そして、これらの格闘に、長い歳月を費やしたのであった。喩えると、火に焼かれるような体験であり、そのプロセスは、一種の地獄降り、黄泉の国の彷徨の様相を呈したのである。

 

(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

第三部 第五章

 

◆大地の共振

 

古来より聖地と呼ばれる場所があり、人々の生活になんらかの意味を持っていたことは、歴史的な遺跡や文献などからも、うかがい知れるところである。近年でも、俗にパワースポットなどと呼ばれる場所があり、かつての聖地の通俗版として機能していることがうかがえるのである。これらの事柄から考えると、場所や土地に関連づいた、何らかの効能が、昔から存在していたことが類推されるのである。

その原理は、よくわからないが、仮に推論すると、ひとつには、催眠的な効果などがある。たとえば、その場所が、伝承や信仰などと関連した象徴(トリガー)となっており、人がその場所を訪れると、一種の催眠的効果が惹き起こされる可能性などである。身体に聖痕が顕れる信徒などがいるが、そのような原理に基づいた、変性意識状態である。ただ、その場合は、その場所にまつわる何らかの信念に、当人が影響を受けていたり、惹起される効能(体験)に関する情報が、事前に当人にプログラムされていることが必要である。

また、別の可能性としては、純粋に物理的なエネルギー作用である。何らかの磁気的・エネルギー的作用が、そこに存在しているのである。現代の科学では、まだ検出されていないが、未知の成分が存在しており、それらが作用しているというわけである。気功の思想領域などで想定されている内容であり、将来的には、何かの検知が得られる可能性もあるのである。

 

さて、筆者は、ある見知らぬはじめての土地で、まったく予備知識もなかったにも かかわらず、ある種の変性意識状態、エネルギー的な体験を持つことになったのである。ここでは、その事例について見ていきたい。

ちなみに何らかの事前的なプログラムの有無についていえば、その土地は、情報もなく、突然行くことになった土地であった。かつ、その特定の場所についていえば、旅の途中で偶然知り、行き当たった場所であった。つまり、事前の情報は、皆無だったのである。さて、その時は、ほとんど観光として、そのあたりの土地土地をめぐっていたのであるが、ある場所を訪れた帰り道に、とある古い史跡のことを耳にしたのである。その周辺に来て、そのような場所があることを、偶然知ったのであった。

 

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その場所は、予想に反して、小さな山であり、樹林も少しある静かな所であった。

古く長い石段を登り、小高い史跡のあたり一帯を、散策してみることにしたのである。

とある高台のような場所にたどり着いた時、普段はそんなことをしないのだが、何気なく手をかざして、その場を肉体的に感じてみようとしたのである。するとその時、かすかにチクリと、何かの感覚が一瞬よぎったのである。

普段そのようなことはしないので、気のせいだと思い、あまり気にもとめずに、散策をそのままつづけたのであった。ひと通り、あたりも見終わり、帰り際にすることもなくなったのであるが、その時、ふとさっきの感覚が何であったのかが気になったのである。そのため、さきほどの場所に戻り、その感覚をたしかめることにしたのである。最初の場所に行き、そのあたりの方向に、(目立たぬよう)掌を向けてみたのである。その正確な方向と位置をさぐってみたのである。

 

すると、

見知らぬ若い女性に、声をかけられたのである。

 

向こうの方に、旧来の祠があるのだという。

いまの祠は、後の時代につくられたものだという。

こちらだと、その女性が早足に行ってしまった方向に、慌ててついていくと、

案内してくれた、その樹々の葉繁みの向こうに、

たしかに、古い巨石群(磐座)があったのである。

(後で調べると、弥生時代からの古い出土品も確認されている遺跡らしかった)

 

その人が、お祈りをしたあとに、

何気なく、その磐座に手をひろげると、

ブーンと、うなりをあげるように、

不思議な、波動のような、強い未知のエネルギーがやって来たのである。

エネルギーが、流れ込んで来たのである。

痺れるように、身体に浸透してきたのである。

さきに遠くで感じた熱感はこれだったのである。

 

共振する感じというべきだろうか。

磁気的な浸透というべきだろうか。

存在を透過するように、

心地よい、深く痺れるような、強烈な振動性のエネルギーに、

身体が浸されたのである。

包まれたのである。

 

それは、今まで経験したこともなければ、想像することもできないような、微細で、強烈な、浸透性ある振動エネルギーであった。また、それは、どこか奥行きや、巨大な力強さを感じさせるものでもあった。その力は、どこから来ていたのだろうか。磐座自体から来るというよりも、その磐座の下の大地そのものから、帯電した力として現れてきているように感じられた。

磁石のN極とN極を近づけると、反発する見えない力の存在をはっきり感じ取れるものである。そのエネルギーの力もまた、同じようにはっきりと感じとれるものであった。また、その力は、心地よい透過をもたらすものであると同時に、どこか神秘と畏怖の念を惹き起こすものでもあった。

しかし、一番手前にあった感覚は、透過してくるエネルギーの恍惚的な触感であった。また、謎と驚きの感覚であった。不思議な力の質性に加えて、このような奇妙な出来事が、実際に起こっていること自体にも驚いていたのである。そして、ただ、茫然として、その力を感じとり、その質性の謎をより知ろう、感じ尽くそうという気持ち以外に、あまり意図が働かなかったのである。

 

(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

第四部

 

二、気づきと夢見

 

まず、はじめに、ここでは、「意識的に夢を見る」ということについて考えてみたい。意識的に夢を見ることは、夢の力を取り出し、外在化させるために、最も直接的な方法のひとつだからである。しかし、意識的に夢を見ることは、常識的に考えてみても分かるように、そんなに簡単なことではないのである。その状態は、白日夢と近似した状態ではあるものの、逆説的な要素を含んでいるからである。そもそも、日常意識とは、夢を見ていない状態のことを指しているからである。そのため、その状態は、ある面、日常意識と夢とを、同時に(多重的に)実現することを意味するのである。その点で、これは、心理学的に考えられた幻視の技法ともいえるものである。

 

さて、夢はそもそも、自律的に奔流する野生の心の機能である。その表現も、日常的現実から見ると、非論理的、非因果的なものである。一方、日常意識は、無意識の奔流する情報を濾過・組織化し、因果的に、秩序づける働きである。夢の表現は、象徴的で暗示的、暗喩的で重層的である。一方、日常意識は、明確で明示的、論理的で単線的である。両者はある面、対極的なあり様をしているのである。そのため、両者を同時に働かせるようにするためには、両者の力が相殺しないように、両者の情報の流れを、上手く均衡させる(メタ的な)気づきawarenessの機能が、重要となるのである。気づきの力が、夢見の状態をつくり出し、保持・統御するための要となるのである。つまり、具体的には、気づきの中で、意識の焦点を緩め(拡げ)、夢の流入を導き、調節を行なっていくのである。普段でも、私たちは意識のふと緩んだ瞬間に、さまざまな空想や夢を見ているものである。それをより組織的に行なうということなのである。そのため、これは喩えると、夢の湧出と意識の集中とが、均衡(共振)する心の状態を意図的つくり出すことともいえるのである。その状態を、気づきのフレーム枠の中で、堅固に統制・保持することなのである。特に日常意識は、合意的現実を基盤として、心に自在に閃くものにフィルターをかけて、抑圧しがちである。日常意識と夢の湧出を均衡させるためには、変性意識状態を取り入れつつも、日常意識が、ある種の可動域(許容量)を柔軟に拡げていくことが求められるのである。これは慣れと訓練的な事柄であると同時に、習熟が可能な事柄でもあるのである。瞑想のように、心をじっくり注視する中でも修練が可能であるし、また、心理療法のセッションの中でも、鍛えることが可能な事柄である。また、この後に見るように、競技的な身体技法や、創作的プロセスの中でも磨いていくことが、可能な技能となっているのである。そして、この夢見の統制状態に慣れて来ると、外部領域と交わる、生活のあらゆる場面で、そのエッセンスを、知覚的霊感(創造性)として活かすことができるようになっていくのである。

 

(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

第五部 第二章 野生の気づき

 

 ここでは、「野生の気づき」のあり方について考えてみたい。さて、通常、現代の私たちが、A地点からB地点に行くという場合、B地点に何らかの目的があって移動するのが普通である。そして、そのあいだの移動距離(時間)というものは、目的地に較べて、不要な行程(過程)とされており、価値のないものと見なされているものである。そのため、この行程を省略するための交通手段が、高い価値を有しているのである。たとえば、速度のはやい飛行機や特急車両などが高額である理由である。そこでは、行程にかかる距離と時間が、金で買われているのである。これが、私たちの、普段の価値観における、目的地(目的)志向であり、過程(プロセス)や時間に対する考え方である。

 

ところで一方、野生の自然の世界とは、忍びあいの世界である。動物たちは、いつ自分が、天敵や捕食者に襲われるか分からない世界で生きている。一瞬たりとも、気(気づき)の抜けない世界である。また逆に、いつ食べ物や獲物が、目の前に現れる(チャンス)か分からない世界でもある。その意味でも、一瞬たりとも、気の抜けない世界である。自分が、捕食者として獲物を狩った瞬間に、今度は自分が獲物として捕食者に狩られてしまうという、そんな容赦ない世界である。生き延びていくためには、無際限な、瞬間瞬間の気づきが、必要な世界である。気づきの欠如は、すなわち、自らの死につながるからである。つまり、野生の世界では、気づきの持続が、イコール生きることなのである。たとえ、A地点からB地点に移動するにしても、省略してよい無駄な時間などは、一瞬も存在しないのである。すべての瞬間が、可能性であり、危険であり、魅惑であり、在ることのかけがえのない目的なのである。すべての瞬間が、生命の充満した時間なのである。

 

さて、現代の私たちの(人間)世界と野生の世界との、過程のとらえ方、気づきの働かせ方を記したが、いったいどちらが、生きることの豊かさの近くにいるであろうか。生命の深さと濃密さに通じているであろうか。それは、過酷ではあるが、野生の世界であろう。

私たちの現代社会においても、危機的なサバイバル状況では、動物のような野生の気づきが必要となるのである。現に今でも、世界では、厳しい政治状況などによって、野生の気づきをもって、生きざるをえない人々がいるのである。

 

さて、本書では、このような野生の気づきのあり方に、ありうべき気づきの働かせ方、過程と時間のとらえ方を、生を透徹させる可能性を見ているのである。瞬間瞬間、サバイバル的に、野生の気づきをもって、未知の経験に開かれてあること。瞬間瞬間、能動的に、創造的体験に開かれてあること。できあいの言葉や観念で世界に膜をかけて、ものを見ないようにするのではなく、そのような人間的ゲームの外に出て、俊敏な気づきの力で、野生の創造過程を垣間見ること。そこに、私たちが、自然本来の創造性を生きる鍵があると考えているのである。(中略)

 

 

第三章 狩猟的感覚

 

◆野生の追跡

 

さて、野生の気づきについて見たが、そのような気づきの働かせ方を、実際に生活の中で行なっているのが、原始的な狩猟を、生活の糧とする人々である。ところで、そのような狩猟する人々においては、狩りで獲物を追う際に、トラッキングtrackingということを行なう。トラッキングとは、動物が残した足跡(痕跡)から情報を読み取る技術のことである。その足跡を残した時、その動物がどのような状態(状況)であったのかを、探り当てる技術である。

足跡とは、情報の宝庫である。足跡とは、それを残した者の足裏が、土に残した圧力の跡である。私たち人間でも、歩いているその時の体調や心理状態により、歩幅、脚の開き方、角度、足裏にかかる重心のバランスなどが、さまざまに変わるのである。それによって、土に残る足跡のつき方も、皆変わるのである。トラッカーは、その微細な情報を読み取り、獲物の姿を推定するのである。練達のトラッカーが、足跡を見れば、その獲物の種類や大きさはもちろんのこと、その時の目的や心身の状態までをも読み取るのである。なんの活動をしていたのか、体や視線はどっちを向いていたのか、目的を持った歩みなのか、迷いながらの歩みなのか、今どのあたりにいるのか等々、各種の情報(状態)を読み取るのである。そのように、トラッキングする者は足跡をみて、獲物の過去・現在・未来を見通していくのである。 

 


◆追跡の眼差し

 

さて、このようなトラッキングの技法やその眼差しは、私たちにとって、世界をとらえる際の示唆となるものである。トラッキングする者にとって、目の前にある風景とはすべて、自然界のなんらかの作用した結果、「痕跡」なのである。その痕跡の積み上がった物の風景として、目の前に、世界が広がっているのである。その意味では、風景の個々の細部は、すべて偶然なく、自然界の力の結果として、「そこに在る」のである。逆にいうと、すべての痕跡は、情報であり、そこから大元の自然界の作用、要因、履歴がたどれるのである。…今、目の前に、「一枚の葉」が落ちている。それはどこから来たのか。どのような場所で、どのような樹の枝や、樹々の仲間に囲まれて育ったのか。どのような陽差しや気候、歳月の元で育ち、その形と大きさ、色合いになったのか。そして何の力が、その葉をここに運んだのか。いつ来たのか。誰に踏まれて、今の傷を持ったのか。それはいつのことなのか。この後、この葉はどうなっていくのか… そこには、この自然界を成り立たせている、さまざまな生命の力への、繊細な注視があるのである。このような個物の膨大な集積、出来事の総体として、今、目の前の世界が広がっているのである。そして、気づきの力を駆使して、自然界の刻々の変化を見つめていくのである。天候の移り。空の色の変化。その濃淡。渡る雲の速さ。風の流れ。匂い。湿り気。冷たさ。鳥たちの遠い飛行。あたりの静けさ。消えかかっている何者かの足跡。その歳月… それらは皆、豊かにつらなった痕跡の重なりとして、目の前にあるのである。そこには、自然界の生きた時間の履歴が、重層的にひろがっているのである。そして、それらは、サバイバル的な、探索的圧力のもとで、「視えてくる」のである。

 

また、このようなトラッキングの眼差しは、野山の中だけに限定されるものではない。自然の働きは、都市での生活においても同様に働いているからである。森林の中で気づきの力を働かす注意深さと同様に、都市での生活においても、注意深い探索的な気づきが、必要とされるのである。というのも、都市の生活においては、情報(痕跡)を操作して、他者の欲望を操ろうという意図が、社会的活動の大勢を占めているからである。故意に、ニセの痕跡(情報)を残す者も多いからである。そのため、森の中で、さまざまな痕跡(情報)を見分けるように、気づきをもって、さまざまな情報(痕跡)の由来や来歴を追跡し、その痕跡主の素性を見抜かなくてはならないのである。また一方、都市の雑踏の中においても、他者や自己の痕跡を注意深くトラッキングすることで、自己の進むべき道を見失わないようにしないといけないのである。そのように、彼我の欲求を分けて、自己と大地に、深く根を下ろすためにも、トラッキング的な技法は、有効に働くのである。(中略)

 

 

第六章 戦士の道と平和の道

 

戦士の道と平和の道について、ここでは取り上げてみたい。ネイティブ・アメリカンの人々によると、この世には二つの道があるという。

戦士の道と平和の道と。

そして、そのどちらもが大切であるという。

 

warrior way 戦士の道 とpeace way 平和の道

人生では、平和を望みつつも、戦わなければ、解決できない事柄がある。その時には、覚悟を決めて、敢然と最後まで、戦い抜くことができなければならないのである。また、人生には、酷たらしい凄惨な戦いのさなかにあってさえ、時として、平和的な解決を用いなければならないこともある。その時には、紛争の中においても、平和的な手段を行使できなければならないのである。

戦士の道と平和の道。

このどちらもが、大切なのである。どちらか一方の手段しか持ち合わせていない人は、行き詰まる。しかし、通常、私たちは、どちらか一方だけの道を選びたくなるものである。物事を割り切ってしまいたがるのである。その方がすっきりして、楽だからである。迷わなくてもよいからである。世界が単純化され、人生がわかりやすくなるのである。

人生とは戦いだと割り切って、つねに闘争することによって事態を打開していこうする人々。その勝利のみを価値としようとする人々。また、平和こそが真実であるとして、争いを避け、常に平和的に物事を解決しようとする人々。そのような人々は行き詰まるのである。人生は、戦いであると同時に平和でもあるという、両方の要素を合わせ持っているからである。

このどちらの道も認め、理解し、ともに柔軟に使えるということが、真実を生きていくためには、必要なことなのである。

しかし、このことは、矛盾した、苦痛をはらんだ葛藤を、人生に呼び込むことでもある。激しく相反する両方の価値感情を、自分の中で抱えつづけなければならないからである。しかし、この矛盾や苦痛を抱えて生きられるということが大切なのである。それが、善悪や陰陽を合わせ持った、私たちの生の全体性(両極性)を、深く生きることにつながるからである。振幅する極を合わせ持った自己の拡充、人間の魂づくり、魂の器づくりにつながるからである。それが、生きることの秘儀に通じる道だからである。

戦士の道と平和の道。

この二つの道の教えは、そのことを、私たちに教えてくれるのである。

 

 (つづく)

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

第六部

 

第一章 心理学的に見た変容のプロセス

 

ゲシュタルト療法などの体験的心理療法を、人生の長い期間にわたって取り組んでいくと、どのような人格的な変容が生じていくのだろうか。その変容の推移について、ここでは見てみたい。体験的心理療法というものは、その生理的・生物学的な原理ゆえに、短期のセッションにおいても、長期プロセスにおいても、類型的なパターンを現しがちなものだからである。

 

 

一、山越えのモデル

 

さて、私たちが、体験的心理療法に取り組みはじめた時、その道のりの姿は、どこか「山越え」や登山のイメージと似ているのである。人は、何らかの、自己の「理想の心理状態」という遠いゴールを目指して、これらに取り組みはじめるのである。人は、登山のように、手前にある心理的課題から、ひとつひとつ、一歩一歩、これを乗り越えていくのである。自分の心を苦しめ、妨害する要因を、ひとつひとつ解決し、取り除きながら、登攀の向こうにある、解放された心の状態に到達することを願って、努力を行なっていくのである。人は、目指す心理的状態に達するために、小さな山を越えていくことを覚悟している。これからしばらくは、苦労も少しはあるかもしれないが、それを越えた向こう側に、素晴らしい心の解放状態があることを予期して、取り組みを続けていくのである。面倒な山を乗り越えた後に、苦労に見合うだけの、心の充分な理想状態があることを確信して(願って)いるのである。だから、山越えの労苦にも挑むことができるのである。その確信(願い)なくしては、山に登りはじめることもできないであろう。そのため、最初の取り組み(出発)の時点で、山の向こう側にある心の解放状態をどのようにイメージしているかは重要な要素なのである。登攀の動機づけの肝になるからである。多くの人は、何かしらのイメージを持って、越境するかのように、旅に出発していくのである。

 

 

二、3つのフェーズ

 

さて、ここでは、山越えのようにはじまった旅が、図らずも実際には、どのようなプロセスをたどるのか、3つのフェーズ(段階、局面)に分けて見ていきたい。ここでは話を分かりやすくするために、3つのフェーズ区分を、いくらか誇張的に表現している。実際、もっと緩やかな起伏で、プロセスを経ることが多いものである。ただ、これら推移は、心の構造変化に由来するものであるため、大枠では、このような傾向(意味合い)を持つということである。そのため、フェーズの区切りは、主観的には、必ずしも截然としないケースもあるのである。

ところで、これらの変容パターンが示している事柄は、人格変容の過程が、私たちの主体的な視点から見ると、望むほどには思い通りにも、直線的な目標達成モデルにもならないということを示している。私たちは、図らずも、このような紆余曲折の推移を辿ってしまうのである。ただ、そのことを知っておくと、変容の過程で航路を見失っても、難破しないための予備知識となるのである。変容過程は、心の自然な構造変化に由来するので、その理解を持っておくことは、変化を見守り、嵐をやり過ごすための秘訣となるのである。(中略)

 

 ところで、禅については、青原禅師の有名な話が、一般にも知られている。禅の深化のプロセスを説いた話である。禅をはじめる前は、人が見るのは「山は山である」という、ただの普段の風景である。しかし、禅のプロセスが深化すると、風景の自明性は失われ、「山は山ではない」となる。世界は流動化し、確かなものはなくなるのである。意味から解放された空なる世界である。そして、さらに、禅が深化すると、ふたたび「山は山である」となると言われる。世界は、経過したプロセスのすべてを統合濃縮して、それ自身に回帰していくのである。宇宙の重層的な濃密であると同時に、何の変哲もない、今ここの、乾いた風景に回帰するのである。ゴミはゴミであり、糞は糞である。それは、すべてを含むもの(場所)であり、完璧であり、それはそれで良いのである。

 

 さて、体験的心理療法の変容プロセスも、ほぼ似たプロセスをたどっていくのである。フェーズ3においては、その最後に、旅のプロセスのすべてが重層的に反芻され、今ここに回帰して来ることとなる。旅をはじめる前の、苦悩の風景がふたたび戻って来るのである。そして、レンズの焦点が合うかのように、数十年前の風景と感覚が、今ここの透徹した風景と重なり合うのである。すると、風景はそれ自身となることによって(ゲシュタルトが完了するかのように)、すべての意味と内実が、流砂のように脱落していくのである。軽い枠だけを残して、風景は、中空になっていくのである。存在は解放され、抜け出され、無がやって来るのである。後には、今ここに渦巻く息吹と、笑いだけが残るのである。

 

(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

第二章 英雄の旅

 

(中略)

 

1.心理学的変容との類似性

 

一つ目は、前章で見た、心理学的変容と英雄の旅との類似性である。これらはともに、「出発→通過儀礼→帰還」という構造を持っているものである。出発と帰還の間に、通過儀礼的な変容過程が入っている形式である。ところで、中間部の変容過程を見てみると、そこでは、両者ともに、とある別空間(異界、変性意識状態)に越境的に入り込み、特別な力と交流することが、その変容の原理となっているのである。英雄の旅においては、変容を引き起こすエネルギーは、超越的な存在(魔霊等)との交流・試練という形で表現されている。彼らは大概、圧倒的な凄まじいエネルギーを持っているものである。一方、心理学的変容においては、変容の原理は、魂の暗い夜における、無意識の浮上と、そのエネルギーとの浸透・交流という形で現れて来るのである。この両者のパターンを重ね合わせて見ると、英雄(自我主体)は、知られざる過剰な存在(魔霊、無意識)に圧倒されながらも、それらから力を得る(奪い返す)のである。そこにおいては、旧来の主体を解体するような経験を持つことにもなるが、その結果として、新しい存在の力を身につけることにもなるのである。ちなみに、第五部でも触れた伝統的シャーマニズムの世界観においては、これらの危機的なプロセスは、精霊などの聖なる存在によって、引き起こされると見なされているものである。つまり、類似した体験内容が、一方では怖ろしい魔的存在による危険と見なされ、他方では聖なる存在による試練(恩寵)と見なされるということである。これは、心理学的に見ると、主体の抑圧傾向(価値)に合わせて、他者が善悪違って表象されているということである。通常、自分を完全に善(天使)と見なす者は、他者を完全に悪(悪魔)と見なすものである。善悪が、逆の場合も同様である。また、抑圧が強いと、他者に投影される姿形も、激しくなりがちである。ポイントは、主体の抑圧内容と分裂の程度なのである。そして、私たち(英雄)を殺すほどのパワーを、悪しき力が持っている場合、そのパワーは、私たち(英雄)の抑圧と分裂がつくり出した力なのである。心理学的に見れば、その悪しき力と交流するプロセスは、自我主体がその分裂した力を回復(再統合)するプロセスだと見なせるのである。そのことは、旧来の自我の危機や解体(死)と引き換えにしたとしても、最終的には望ましいことなのである。その悪しき力(自己の半面)を統合できた時に、私たちは、いくらか心の全体性を回復し、自我の刷新と、異界的な新しい力を、我が物とすることになるからである。

 ところで、昭和の時代、テレビのヒーロー番組では、主人公の出自が、悪の組織であるという設定がよくあったものである。ヒーローが持っている並外れた力の由来は、悪の獰猛な力なのである。これは、悪の力が、私たちの日常的現実を超えた、超人間的な、過剰な力であることを神話的に示しているのである。またこれは、普段、私たちが、反社会的な、アウトロー的な力に魅惑される理由でもある。そこには、日常的現実に収まらない、生の過剰的な力が表象されているからである。悪の神話学の法則である。そして、その悪の力の中で、さらに目覚めて、その力を奪い返す(盗み取る)というトリックスター的な、超出的な飛躍(変換)が、英雄の方程式なのである。ヒーローたちが、悪の組織から裏切り者と呼ばれていた理由である。また、単なる凡庸な善の世界にも同化できない理由である。しかし、その変換プロセスを通して、英雄(私たち)は、善悪を含み超えた、自己の深い全体性を育てていくのである。そして、孤絶した、自由で軽やかな個的超越を獲得していくのである。(中略)

 

 

◆行きて帰りし物語

 

さて、前章とこの章では、心理学的変容と英雄の旅の、それぞれの変容モデルを見てみた。ところで、これらの過程は、ともに形式だけを見ると、こちら側(此岸)の世界からあちら側(彼岸)の世界に行き、さまざまな経験を得て、こちら側の世界に戻ってくるという、行き帰り(往還)の形式を持っているのである。昔話などによく見られる「行きて帰りし物語」(トールキン)なのである。次の最終章では、この行きて帰りし形式が、私たちの人生に対して、どのような原理的な意味を持っているのかについて考えていきたい。

 

(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

第三章 野生的エクスタシィの技法

 

◆変容の原理

 

 では、生の変容過程(行きて帰りし旅)とは、どのような原理や構造を、その深層に持っているのであろうか。それを見ていきたい。前章では、英雄の旅とゲシュタルト療法のセッションが、類似した体験過程を持つことについて見てみた。また、第三部においては、ブレスワークとゲシュタルト療法のセッションが、深層において、共通の体験過程を持っていることについて触れた。ここからも類推されるように、生の全体性を指向する変容プロセスには、根っこのところで、同種の体験過程があるようなのである。それは、何度か引いた、次のようなプロセスである。

 

「たいていの場合、ホロトロピック(※全体指向的)な体験は、オルガスム曲線を描き、感情のもり上がりとともに、身体的兆候が現れ、それが絶頂期を迎え、突如の解決に導くといった経路をたどる」 (グロフ、前掲書 ※引用者)

 

 中心にある原理は、生体の、絶頂へと向かう自律的な解放運動と、本然性回復のプロセスなのである。それは、短期的にも長期的にも、未完了のゲシュタルトの表出(充足)のプロセスとなっているのである。その絶頂を目指す運動にともなって、エネルギーの緊張と解放が生じ、未全なゲシュタルトに対する意識化のプロセスが起こって来るのである。

 

 そして、この過程については、どのような視点(意識と無意識、時間的長短)から、プロセス全体を見るかによって、見えるモデルが違って来るのである。無意識の力の浮上と、意識への浸食を中心にプロセスを見ると、ブレスワーク(短期的過程)や、心理的変容のフェーズ(長期的過程)が見えて来る。一方、無意識と格闘する意識の統合過程を中心に、プロセスを見ると、ゲシュタルト療法のセッション(短期的過程)や、英雄の旅(長期的過程)の形態が見えて来るのである。どこに視点を置いて、プロセス全体を見るかによって、参照する変容モデルも変わって来るのである。しかし、全体としての運動の姿を見てみると、絶頂を目指すオルガスム曲線のようなベクトルが見えて来るのである。それは、前にも触れたように、自発的な異物解消と本然性回復の、生命生理的プロセスなのである。

 

 特に、このオルガスム曲線のプロセスは、行きて帰りし旅の「行き」の部分、つまり異界的彼方へ向かう局面においてよく当てはまるのである。グロフ博士は、次のような観察を、各所で指摘している。つまり、ブレスワークの体験過程においては、生体の中で、あたかも自動的にスキャン(走査)がはじまり、不具合箇所が見つけ出され、その問題が自然に解消されていくようであると。おそらく、これと同様の形で、人生の長期的なプロセスにおいても、私たちの無意識の力は、未完了のゲシュタルトを、意識の前景(図)に押し出して来て、それらを解消するようにと、私たちに促して来るのである。そのことで、より自由な生命の流動性を獲得できるようにと、未完了な心理課題を解消する絶頂的表出(意識化)へと、私たちを追い込んで来るのである。ただし、このオルガスムのプロセスは、たった一回の絶頂で、すべてが解放されてしまうほど、単純な構造にはなっていない。そのため、終局的な解放を目指して、異物のような未完のゲシュタルトを解除する小さな絶頂を、人生で幾度も繰り返していくこととなるのである。

 

 また、ブレスワークのセッションの中では、さまざまな身体症状や激しい情動が溢れて来て、私たちの意識を圧倒して来るものである。それと同じように、人生の長い過程においても、無意識の力は、私たちの意識の前面に、ときどきの解消すべきテーマ(障害、課題)を現わして来るのである。心理的な投影を介して、実在の人物や事件の姿を借りて、それらを現わして来たりするのである。そして、私たちを怖れさせたり戦わせたり、魅惑したり愛させたりしながらも、終局的なゴールへ向かって追い込んで来ることになるのである。無意識が活性化すると、私たちは、それらの像たちにも感応(感染)しやすくなるからである。そのようにして、普段の人生の、長期的なプロセスにおいても、私たちは、悲喜交々や激しい愛憎体験を通して、解放へのオルガスム曲線を、その果てまで辿ることになるのである。

 

 さてまた、オルガスム曲線モデルにおいては焦点が当たらない、旅の「帰り」の部分、往還の「還」の部分を含めて考えると、この行きて帰りし旅には、さらに、どのようなプロセス(モデル)が見えてくるだろうか。そこにおいては、(オルガスム曲線と重なって)生命における成長と結実、拡張と収縮のサイクルが見えて来るのである。つまり「食と性の宇宙リズム」(三木成夫)である。このリズムにおいては、拡張(成長繁茂・春夏)と収縮(開花結実・秋冬)のサイクルが、繰りかえし反復されている。「行き」である拡張においては、成長繁茂のプロセスが、若さのようにオルガスム的解放を求めて、果てまで行くことを目指すのである。生命が、潜在力の十全な解放をめざして、冒険のよう果てまで行くことを目指すのである。一方、「帰り」である収縮においては、開花結実のプロセスが、世界との交感・交合を、収穫や果実として、凝集・凝固することを目指すのである。これは、普段から、私たちがよく目にする、自然界の原理的な姿なのである。

 

 さて、このようにして見ると、私たちの人生に現れる変容過程が、オルガスム曲線を描きつつも、拡張と収縮、成長と結実を、季節のように繰りかえす、生命の普遍的な相貌と重なって来るのである。

 ところで、この探索における実践上のポイントについていえば、ここでもまた、主体的な姿勢として肝要なのは、気づきと好奇心を持ちつつ、このプロセスを「果てまで」行ききってみようと試みることなのである。その生長を、果てまで展開し尽くしてみようとすることなのである。そのことで、私たちは、神話英雄のように、生命の未踏の領域に到達し、焼尽するような変容を通して、こちら側に還って来ることができるのである。

 そして、また、そのように見ると、この旅の果てにあるものが、食と性の接点、個と類をつなぐ点としての絶頂、つまり、愛と交換の地点であるというのは、興味深い事柄でもある。そこにおいて、私たちは自らを超出しつつ、存在を二重化し、自己と他者、生と死、昼と夜とがひとつになるような存在に変貌するからである。

 

 

 

◆頂点への旅

 

さて、このように、生の変容の旅に出た者は、長い時間をかけて、玉ねぎの皮を剥くように、小さな絶頂をいくつも経て、やがて最深部の、ひときわ大きなタイプのオルガスム的絶頂へと、「もっとも厳しい試練」へと向かうことになる。(中略)

さて、実際の、人生の変容過程においては、数々の兆候をたどりながらも、人は、微かな変性意識状態に浸りつつ、徐々に無意識的な力に引き込まれていくのである。あまり意識をすることなく、旧来の日常的現実を越境していくのである。そして、かつての自分とは違う存在に、少しずつ変化していくのである。旅のはじめのうちは、最初に得たアイディアや動機づけがあるために、新しい生活においても、夢中と魅惑のうちに過ごしていくものである。しかし、しばらく時が経つうちに、ふと我に返ると、自分が内側においては、むしろ孤独な状態にあることに気づくのである。旅の出立の時には、あれほど高揚していた気分も、幻であったかのように消え去り、むしろ自分が少し冷えた、さきの見えない状態にあることに気づくのである。変容の波が、知らぬ間に自分をずいぶんと遠い、未知の沖に運んでしまったことを見出すのである。自分がかつての自分とは、少し違う存在になっていることがわかるのである。そこで人は「もう元に戻れないのではないか」と不安を感じつつも「まだ充分遠くに来ていない」とも感じているのである。そして、未知の状態を漂流しつつも、その先に進むしかないと心に決めるのである。心理学的変容におけるフェーズⅡ、夜の航海、または魂の暗夜の状態である。そこにおいては、人は、実際の人生の出来事においても、心理的な投影によって、さまざまな怪物や魔物に出遭うことになるのである。場合によっては、聖なる体験を得たりもするのである。しかしながら、ここにおいては、もはや次の一点に賭けるしかないのである。つまり、ただ気づきを澄まし、自己の深部にある魂の力につながることだけである。自分の感覚を信頼し、変容のプロセスを、その果てまで行ききることなのである。「信頼がなければ、何も起こらない」とは、ネイティブ・アメリカンの人々の言葉である。

さて、旅の絶頂として訪れるオルガスムの様態は、図式的には、もっとも厳しい試練や聖婚などであるが、いずれにせよ、過酷な旅の果てにおける、旧来の自我や世界の死、新しい自己の誕生という変換の地点となるのである。人は、各自の旅の果てに、自らの英雄として、そこへたどり着くのである。その地点に、自我を熔かし込んでいくこととなるのである。

 

「もう何年も前から私は、どうしてそう幾度も頂上へ、最終点へ行かなければならないのかと自分に問うている。誰だって頂上へ行きたいのだと思う。ただしその頂上とは、必ずしも山の頂上ということではなく、一つの終わりである点、すべての線がそこに集合する一点、物質が若返り、物質が非物質化する地点ということである。少なくとも象徴的には世界が無となる地点、すべてが完結するこの終着点が、私に対して魔術的な磁石のような吸引力を及ぼすのである」(メスナー『死の地帯』尾崎鋻治訳、山と渓谷社)

 

登山家ラインホルト・メスナーの言葉である。その象徴的な語り口からしても、メスナーが、一種の内的な旅として、その山頂を目指していたことがわかる。そこには、旧来の世界や自己が消えてしまうような地点があるのである。同様に、変容の旅に出た私たちは、そのオルガスム的な極点において、自己を超出し、変容し、新しい自己の誕生(若返り、種子)を見出すことになるのである。

 

(中略)

 

 

◆気づきの未来

 

……………………………

 

 ところで、ゲシュタルト療法の解説の中では、私たちが普段、心身や内的なものを投影して、外部の現実を見ていることについて触れた。その意味で、私たちの「現実」とは、自身の心が映し出したものであるともいえるのである。つまり、この点においても、私たちは、昼間の生活の中で、一種の夢を見ている状態にあるということなのである。ただ、この夢は、他者の夢とも混じりあった、集合的で混濁した夢(悪夢)でもある。その中で、私たちは、日々、人生のさまざまな判断を行ない、行動を起こしているのである。しかし、自分の夢に対して、より鋭い気づきが働かせられるようになると、この昼間の夢の中においても、より醒めた気づきの力を働かせられるようになるのである。昼の混濁した夢のただ中で「これは夢(悪夢)だ」と感じ取れるようになるのである。昼夜を超えた気づきの修練は、私たちの洞察力を、より透徹したものに変えてくれるのである。

 

 ところで、昼間の生活の中で飛び交い、入り混じっている夢の力は、集合的なものの陰画や、抑圧された欲求の投影ばかりとはかぎらないのである。また合意的現実の内容ばかりでもないのである。私たちの魂の奥処からは、宇宙的な創造の大波が、狂気の智慧が、稲妻(トリックスター)のように、時々に寄せて来ているのである。そして、それらに対しても、習熟により、すばやい気づきを働かせて、その流れに乗り込むことができるようになるのである。喩えると、夜の夢の中で、自分の掌を見つけだすように、昼間の生活においても、時々に必要な「掌」を見つけだし、そこにひそむ夢の来訪や、渦巻く振動性のエネルギーを、相応しい在り方(音色)で活かせるようになっていくのである。いわば夢見のトラッキングである。そして、そのことを通じて、あたかも緩やかになった瞬間に入り込むように、痕跡と残像の向こう側にある、より奔放な生の戯れに、忍び寄りつつ、生きられるようになるのである。それは、私たちのこのざらついた現実を、砂絵のように極彩色な、創造性の息吹に変えてくれるのである。

 

 

 

◆おわりに

 

さて、これまで見て来たように、内的変容の行きて帰りし旅、つまり、変性意識への異界的冒険と、大地への帰還を経巡り、元いた都市の汚れた雑踏の中に戻って来ると、私たちは、自分が、普段の日常意識と、旅で得た変成された意識との、いくらか多重化された意識を持っていることに気づくのである。知覚の基底が澄み、射し込むような野生の情報との、秘かな交錯に気づくようになるのである。重層化された生の現実を、神経の内に含み持つようになるのである。線はふたたび集まり、山は山となるのである。

山頂から見た展望を覚えていると、下山をする中、谿を行くうえでも役立つように、かの地で得た経験や練度により、日々の生活の中でも、より深い好奇と気づきを持って、日常の物事を眺められるようになるのである。または、冥府を渡った者の眼差しで、この生の場面を、より稀なる鮮やかさとして、見つめられるようになるのである。生の風景に対して、その謎めいた戯れに対して、より芯の次元で、愛惜と肯いを持つようになるのである。それはまるで、かの永劫回帰のようである。すべての人生の瞬間が回帰し、然るべき出来事の到来として肯定されるかのようである。それはまた、人生回顧の情景のようでもある。数かぎりない「今ここ」に凝固された生の光景が溶け出し、ふたたび生きられるかのようである。強い陽ざしに照らされたかつての山径や、くすんだ都会の町々で人々とあった、苦楽の生の回帰。それらが、新たな姿で、自在な流動をもって、現れて来るかのようである。そして、それはまた、未来へ向かって波立つ、この大地の眺めにもつながっているのである。今ここに見つめられる、いつもの街路樹の大通り。遊戯や偶然のさざ波として、気づきの中に寄せる、飛沫のような風景。それらが注視されつつ、生きられていくのである。

 

 

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

第四部 夢見の技法

 

(夏の朝…)

 

夏の朝

嵐すぎ

われるよう

澄みきる

大気のあつさ

海べり

見わたす

真青のあつみ

反射する

目痛い

まぶしさ

砂浜の

鳶たちの点影

啼き声

高く

風ない浜の

照りかえす

陽の

烈しさ

散らばる流木に

歩みの足もと

砂のめり

躯のふしぶし

透きとおす

暑さのうねり

光はらんだ

目路のかなたに

あと刻む

砂のつらなり

陽の奥に

昏い喪失の

わずかに鎮まり

遠く波だつ

野生の

どよめき

重い

ひずむよう

あわいを

聴いていく

 

…………

岬をめぐる

晴れた入江

鳥影うごく

空の高さ

護岸工事の

かたい重機音

路面の

黒く艶めき

行きあたる

路地に

暑気の

とどまり

褪せた案内に

古蹟をみとめ

石の路を

登っていく

人いない古道の

樹々の繁り

細まる山径を

ながくぬけ

旧蹟の碑

ちいさな展望台に

たどりつく

 

見渡される

遥かな湾

照りかえす

かがみのよう

しずかな

さざなみの

皺のよう

ゆらめき

陽の

凝集する

反射の

褶曲する

湾岸のむこう

巨巌の

黒く霞み

浜にたどった

足どりを

さがしている

 

…………

雨に

うたれていた

夜じゅう

肌つたう

水滴のながれ

せまい窪地に

うずくまり

嵐の来

うちつくす

雨のはげしさ

生である

緊い圧搾に

雨のそこい

漂白されるよう

うたれていた

……………

 

陽の射す

真黒な翳らい

暑さむせる

籠りのゆらめき

生樹の気の

匂いつよさ

燐のふるよう

視像ちらつき

這いのびる樹々の

清冽ないぶきに

毛孔梳く

浄まりのささり

岬まく

高い山道を

登っている

いただき向かう

蔭ふかい径

分岐をかさね

みなれぬ草の実

見つけている

太古のけはいの

肉底くいこむ

生のはえぎわ

猛ける緑樹の

根をくぐり

草叢の奥

しらずに

藪に迷いこむ

昏い山蔭めぐる

夏草の繁茂

執拗にからむ

悪い蔓の毛ぶかさ

ぬかるむ土の

異臭の泥黒さ

見晴らしもとめ

急峻なけもの径を

渇くよう

あがっていく

苔むす倒木を

跨ぎこえ

巨木の交う

秘かな暗緑の森陰

ぬけていく

見あげる

高い樹冠に

葉蔭ひらき

覗く

濃緑の聳え

鬱蒼の山嶺

射しこむ

陽の

烈しさ

ささめきひしめく暑熱の

白昼のしずまりに

凝視きしみ

砕き

伐りだされる

青空の

原石

ないものの奥に

眩みの

一点

澄んでいく

 

…………

よせる

潮の泡

洞窟の口あらい

碧の窪み

浪のあかるさ

底うつる

礁の

緑青

 

(…白熱のよう……)

 

…………

灌木のびる

巌の小径

四肢で樹枝つかみ

棘だつ草藪を

降りていく

岬をめぐる

昼の山径

綿ちらす

背のある野の草

波うつ

羊歯の葉群れ

巨大な杉の樹生の

翳らいに

陰鬱な林立ぬけ

見おろされる

麓の建物

廃れた白い工場

谿かかる

大きな鉄橋に

かすかにきこえる

役場の

拡声放送

朽ちたバス停に

ふた昔前の

昭和の広告がある

灯りのない

コンビニ酒屋に

埃りをかぶる

土産物たち

草藪ぬけた

熱い余燼に

うつし身の

わずかに凄み

指先に

注視するよう

光が

よせている

……………

………

土地をはなれる

列車に見る

午後の入江

燦燦と

ひたすあかるみに

黒い巌々の

奇岩の姿

見つめる

砂浜の

遥かに

つらなり

澄みきる

大気のあつさに

海べり

見わたす

真青のあつみ

反射する

目痛い

まぶしさ

水平線の

彩り透ける

碧翠に

鉱石のよう

硬い

恍惚

きこえる

詠唱の

かすかな歌声

儀式の終わりに

樹々の下

露営をたたみ

雨の痕

濡れた敷布を

ぬぐっている

道具をしばり

ゴミをひろい

囲んだ火のあとに

土を戻していく

撒かれる

祈りの言葉

のぼっていく

水底の泡だち

いくすじもの水沫に

身うちの

さざめき

透きとおり

像をなす

けばだち

飛沫

過ぎさった

車内の音声に

遅れて気づく

担ぎあげる荷物の

なれた重さ

乗換駅に

山気はただよい

人いない階段を

あがっていく

 

 

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