著作紹介『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』について

 

ここでは、拙著の紹介をしたいと思います。

※現在、特価中です。

 

『砂絵Ⅰ: 現代的エクスタシィの技法』

 (電子版 or 書籍)

※kindle無料アプリは、コチラ

 

 

本書の内容やテーマは、

サイトの記載と一部重なるものですが、

その目的(狙い)において、

少し、違うものとなっています。

 

本書においては、

(筆者の実体験も踏まえて)

意識拡張のさまざまな形態や、

心身の多様な可能性の、

全体像を示すことが、

目的となっています。

 

そのため、

各種の方法論や変性意識体験

(ゲシュタルト療法、人生回顧体験、クンダリニー体験、

聖地体験の事例、夢見の技法、行きて帰りし旅等)の、

検討を踏まえて、

潜在能力を解放する各種技法が、

テーマとなっているのです。
 

巷で知られるものより深いレベルで、

変性意識の実態や、人格変容のプロセス、

存在の肯定的状態(エクスタシィ)について、

理解を深めたい方には、

心身のより深い統合の姿を、

展望いただける内容となっています。

 

また、

癒し(心理的統合)や、

創造的なアウトプット(成果)を目的とするにしても、

自分の潜在能力や、心の全体性の力を、

深いレベルで理解しておくことは、

実際問題(利点)として、

近道ではあるのです。

 

意識の謎を解いていきたい方にとっては、

本書は、生涯に渡って、

役立つ内容となっています。

 

以下は、本文からの抜粋です。

 

 

『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法』 


はじめに

 本書は、心理療法や変性意識状態を素材として、私たちの心が持つ、多様な可能性について考察を行なったものである。副題の「現代的エクスタシィの技法」とは、エリアーデの著書『シャーマニズム』の副題『エクスタシィの古代的技法』より来ている。本書に、心理学的なアプローチによる、エクスタシィ(意識拡張)の技法を見出そうという目論見があるからである。そのため、本書においては、意識の変異した状態や、無意識の自律的な機能を中心に、私たちの心が持つさまざまな能力について検討が行なわれている。そして、自然的な創造性が、私たちを導いていく精神の諸領域についても、その展望を見ている。本書を貫く主題は、気づき、変性意識状態(ASC)、心身の拡充的な統合といったものである。

 第一部と第二部では、「気づきの技法」と題して、心理療法の一流派であるゲシュタルト療法を取り上げている。ゲシュタルト療法は、現在では人間性心理学に分類される、心理療法の流派であるが、その原理や効果の実態を見ると、治療目的の心理療法だけに限定されない多様な要素を持つものだからである。また、その実際のセッション体験は、私たちの心の持つ能力や可能性について、さまざまな事柄を教えてくれるものだからである。ゲシュタルト療法は、健康な人が、自己の心を探索し、創造力や才能を発掘する技法として、効果を望める面が強いのである。それゆえ、流派の創始者パールズは、ゲシュタルト療法の原理が持つ普遍性を強調するために、自身をゲシュタルト療法の創始者ではなく、再発見者にすぎないと表現したが、それも、あながち言い過ぎともいえない面があるのである。ゲシュタルト療法の実践が持つ原理は、禅をはじめ、世界の瞑想技法とも多くの共通点を持つものなのである。また特に、実践のなかで育って来る、気づきawarenessの能力は、重要な要素となっているものである。その能力は、精神を探求する諸流派の方法論と呼応しつつ、治癒効果にとどまらない、意識拡張の可能性について、さまざまな事柄を、私たちに教えてくれるのである。実際のところ、ゲシュタルト療法を、古今東西にある気づきの技法に、心理学的技法を加えた方法論として見るという、別の見方をすることも可能なのである。そのように見ると、さまざまな介入技法を持つ、ゲシュタルト療法の利点も見えやすくなって来るのである。そのため、本書のゲシュタルト療法についての記述は、必ずしも、教科書的な解説に準じない面や、心理療法としての注意点を省いている面もあるが、それは、そのような本書の狙いのためである。本書では、意識や心身の能力を拡大する、気づきの技法として、ゲシュタルト療法の可能性を検討しているのである。

 第三部では、変性意識状態Altered States of Consciousnessを取り上げて、その体験のさまざまな様相を見ている。変性意識状態とは、意識の変異した状態であるが、それは、普段の日常意識では、あまり知ることのできない、さまざまな体験領域について教えてくれるものである。ここでは、具体的な事例を交えつつ、そのような意識状態の諸相について見ている。

 第四部では、夢見の技法と題して、夢を取り扱う、さまざまな方法を取り上げている。夢は、無意識(潜在意識)の自律的な智慧であり、私たちの意識に、必要な情報をもたらす生体機能である。また、その夢に対して、相応しい表現を、生活の中で与えていくことは、私たちの心身に拡充をもたらす、重要な方法論となっているのである。

 第五部では、私たちの自然的な(野生的な)能力を回復するという観点から、さまざまな具体的技法を、取り上げている。それらは、潜在能力の開拓や、生きる力の獲得という面からも、有効な実践技法となっているのである。

 第六部では、以上のまとめとして、心理学的な人格変容を通した、私たちの意識拡張の内実について見ている。神話的なモデルなどを参照しつつ、私たちに、存在の拡充をもたらす実践のあり方を検討している。
 

目次

はじめに

第一部 気づきの技法Ⅰ ゲシュタルト療法 基礎編

第一章 ゲシュタルト療法とは 
第二章 気づきの3つの領域
第三章 ゲシュタルトの形成と破壊のサイクル 
第四章 未完了の体験
第五章 複数の自我
第六章 葛藤
第七章 心身一元論的・全体論的アプローチ
(コラム)
・ライヒとボディワーク系心理療法

第二部 気づきの技法Ⅱ ゲシュタルト療法 実践編

第一章 セッションの原理・過程・効果 
第二章 エンプティ・チェア(空の椅子)の技法
第三章 心身一元論的アプローチ
第四章 夢をあつかうワーク
第五章 心理的統合の姿

(補遺)

・セッションにおける通過儀礼とコミュニタス
(コラム)
・アウトプットとゲシュタルト療法
・存在力について

第三部 変性意識状態の諸相

第一章 変性意識状態とは
第二章 呼吸法を使った変性意識状態
第三章 人生回顧体験
第四章 蛇の火について
第五章 大地の共振
(コラム)
・残像としての世界 映画『マトリックス』の暗喩

第四部 夢見の技法

 

・夢見とは
・気づきと夢見
・心理療法と夢見
・夢見における集中状態
・創作的形式の利用
・創作過程とシャーマニズム的構造
・創作の体験過程
・体験の増幅と凝集
・明晰夢の利用

 

第五部 野生と自然

第一章 シャーマニズム的な姿勢
第二章 野生の気づき
第三章 狩猟的感覚
第四章 裸足の歩み
第五章 底うち体験と潜在力の発現
第六章 戦士の道と平和の道
第七章 伝統的シャーマニズムについて
第八章 道化の創造性
第九章 アウトサイダー・アートと永遠なる回帰

第六部 行きて帰りし旅

第一章 心理学的に見た変容のプロセス
第二章 英雄の旅
第三章 野生的エクスタシィの技法

参考文献

 

 

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1.玉ねぎの皮むき

 

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  さて、オーセンティック・セルフ(本来の自己)とは、ゲシュタルト療法の中では、自己表現に関する階層モデルの中で使われている概念(仮説)である。それは、きわめてシンプルな仮説である。モデルの図柄としては、同心円状の輪(層)が、ひとつの核を中心にひろがっている円形図表である(五層一核)。その中心の核にあるのが、オーセンティック・セルフと言われるものである。五つの層(レイヤー) の外側には、決まり文句の層、役割演技の層といったような、私たちの、日常的で表面的な、自己表現の階層があるのである。その下に若干葛藤を含んだ層(行き詰まりの層)が存在し、五層の一番内側(奥)の層には、爆発の層というものがあり、これが、真正な自己表現の階層となっているのである。そして、その下に、原初的で、情動的な、オーセンティック・セルフ(本来の自己)というものがあるのである。つまり、オーセンティック・セルフとは、そこに潜在していると仮定される、自律的で生なエネルギー、感情エネルギーを指しているだけなのである。そして、この奥深い核のエネルギーから、自発的な奔流として、充分表現的に生きられることを、ゲシュタルト療法では目指すのである。一番深い心情から、統合的に生きられている充実的な在り方を目指すのである。そして、人が、自己一致して、肚の底から湧いてくる自分の本心を表明できている時、また、それを味わいつつ、その感情(欲求)で、他者と関わることができている時、人は本来の自分(オーセンティック・セルフ)を生きているといえるのである。


  また、実感レベルでいうと、葛藤や、未完了の体験によって被われている心というものは、奥底にある深い感情(欲求)に、自分でも充分接触できていないし、自由に表現もできないという、不全な感覚を持っているものである。そのため、ワーク(セッション)によって、この外皮のような防壁が薄くなり、葛藤がなくなっていくと、私たちの、本来の感情(欲求)が、心の底から、湧き水のよう速やかに、直接流れ出すようになって来るのである。それは、生きる上での大いなる歓び、エクスタシィ(生の充溢)とも感じられるのである。そのため、その状態を獲得するために、人格システムの硬化をなくし、人格の肯定的・積極的能力を高めていくことが、ゲシュタルト療法の、日々の取り組みとなるのである。

 

 ところで、長年、ゲシュタルト療法を続けていくと、人生の大きな妨げ(制限・苦痛)となっていたような、葛藤や人格の外皮は、消失していくものである。ゲシュタルト療法においては、未完了の体験がなくなると、それらに妨げられることなく、「今ここを十全に体験できるようになる」と言われる。つまり、感情的なノイズや、歪んだ自意識に妨げられることなく、今ここの体験(感覚、感情、欲求)をありのままに体験できるようになるというのである。そして実際、そのような状態は、おおよそ達成されて来るのである。

(つづく)

 


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◆人生回顧体験

  民間伝承などではよく、人は死ぬ直前に、「自分の全人生を、走馬燈のように回顧する」といわれる。人生回顧(ライフ・レビュー)体験とは、そのような体験のことである。この現象は、臨死体験者の事例報告が収集されるようになってから、そのような現象が、比較的高い頻度で起こっていることが、確認されるようになったことでもある。臨死体験研究のケネス・リング博士によって作られた測定指標の中でも、臨死体験を構成する特徴的な要素として、一項目が採られているものである。

  さて、過去に見られたさまざまな事例からすると、この体験は、突発的な事故などの、何かしらの生命危機に際して、遭遇しがちな体験となっているものである。しかし、実際に瀕死状態にならずとも、その危機を判断することの中でも起こるようなので、緊急時における、何らかのリミッター解除が原因となっているのかもしれないのである。筆者の場合は、特に急な事故でもなく、普段の生活の中で、この変性意識状態に入っていったのである。しかし、多くの事例を仔細に見ると、危機的状況による過度な内的圧力(ストレス)が、そのきっかけになることが考えられたので、筆者にあっても、何らかの過度な圧力が、その原因になったと類推されたのである。


◆体験内容

  さて、その体験は、普通に街を歩く中で、突然、訪れたものであった。当然そのような出来事が、自分の身に起こることなど予期していなかったのである。そして、起こった後も、それをどうとらえてよいのか、苦慮したのである。その体験が起きた時は、気分の悪さを抱えながらも、普段どおりに市街を歩いていただけであった。

…………………………………
…………………………………………

重苦しい気分で、通りを歩いている。
暗い感情が波のように、心身の内を行き来するのがわかる。
煮つまるような息苦しさ。
あてどない、先の見えない苦痛に、想いをめぐらせていた、とある瞬間、
ある絶望感が、ひときわ大きく、
塊のようにこみ上げて来たのである。
内部で苦痛が昂まり、過度に凝集し、限界に迫るかのようである。
自分の内側で、何かが、完全にいき詰まり、
行き場を失ったのを感じたのである。
その時、
固形のような感情の塊が、たどり着いた、
後頭部の底で、
「砕け散る」のを、
感じたのである。
物体で打たれたような衝撃を感じ、
視像の中を、
透明なベールが、左右に開いていく姿を、
知覚したのである。
内的な視覚の層が、
ひらいていく姿だったのかもしれない。
奇妙な知覚状態に、
入っていったのである…

見ると、
随分と下方に、
遠くに(数十メートル先に)、
「何か」があるのが見えたのである。
何かクシャッと、
縮れたもののようである。
よく見てみると、
そこにあったのは、
(いたのは)

数日前の「私」であった。
 
正確にいうと、
「私」という、
その瞬間の自意識の塊、
その風景とともに、
その瞬間の人生を、
「生きている私」
がいたのである。

たとえば、
今、私たちは、
この瞬間に、
この人生を生きている。

この瞬間に見える風景。
この瞬間に近くにいる人々。
この瞬間に聞こえる音たち。
この瞬間に嗅ぐ匂い。
この瞬間に感じている肉体の感覚。
この瞬間の気分。
この瞬間の心配や希望や思惑。
この瞬間の「私」という自意識。
これらすべての出来事が融け合って、
固有のゲシュタルトとして、
この瞬間の「私」という経験となっている。

さて、その時、
そこに見たものは、
それまでの過去の人生、
過去の出来事とともにある、
そのような、
瞬間の「私」の、
つらなりであった

各瞬間の、
無数の「私」たちの、
膨大なつらなりである。
それらが時系列にそって、
そこに存在していたのである。

瞬間とは、
微分的な区分によって、
無限に存在しうるものである。
そのため、そこにあったのも、
瞬間瞬間の膨大な「私」たちが、
紐のように、
無数につらなっている姿であった。

それは、
遠くから見ると、
出来事の瞬間ごとのフィルム、
もしくはファイルが、
時系列にそって、
映画のシーンように、
沢山並んでいる光景であった。

そして、
そのフィルムの中に入っていくと、
映画の場面の中に入り込むように、
その時の「私」そのものに、
なってしまうのであった。

その時の「現在」、
その瞬間を生きている「私」自身に、
戻ってしまうのであった。
その瞬間の「私」を、
ふたたび体験できるのである。

主観として得られた、
過去の「私」の情報のすべてが、
そこにあったのである。

………………………

  そして、それを見ているこちら側の意識は、透視的な気づきをもって、言葉にならない、無数の洞察を、閃光のように得ていたのであった。そして、この時即座に言語化されて、理解されたわけではなかったが、この風景の姿から、直観的に把握されたものとして、いくつかのアイディアを得たのであった。
その内容を論点によって切り分けると、おおよそ以下のようなものになる。これは後に、体験を反芻する中で、言語化され、整理された要素である。


(つづく)

 

 

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第四章 蛇の火について

 

……………………………………

 

 

◆白光


「…」

「……」

「…………」

「やって来る」

「やって来る」

「やって来る」

「噴出の」

「来襲の」

「白色の」

「閃光」


「ロケット噴射のよう」

「凄まじい速度で」

「白熱し」

「貫き」

「横ぎる」

「未知の」

「まばゆさ」


…………………………………………
……………………………
………………………


「凄まじい閃光が」

「一瞬に」

「走破する」


「宇宙的な」

「超自然の」

「火柱のよう」

「巨大な」

「白の」

「延焼」

……………………………
………………………
………………


「霊肉を」

「物心を」

「昼夜を」

「透過し」

「貫き」

「蹂躙する」


「急襲する」

「謎の」

「まぶしい」

「獰猛」


「存在の」

「芯を」

「焼きはらい」

「彗星のよう」

「彼方へ」

「拉し去る」

「まばゆさの」

「弾道」

 

 

「けばだつよう」

「遥かに」

「恍惚する」

「白の」

「君臨」


………………
……………
…………
………

(中略)

  それは、一種のエネルギー的体験であり、俗にヨーガでいう、クンダリニー体験と呼ばれるものに分類されるであろう出来事であった。尾骶骨あたりにつながるどこかの亜空間からか、物質と精神を透過する、凄まじくまばゆいエネルギーが噴出して来たのである。謎めいた、稲妻のような白色のエネルギーである。それが肉体と意識を透きとおし、未知の宇宙的状態をもたらす、ある種の極限意識的・変性意識的な様相を呈したのである。
 後になって思い返してみると、たしかに予兆となる現象はいくつかあったのである。しかし、当然ながら、このような事態につながるとは、予期していなかったのである。そして、体験直後のしばらくは、あたかも放射能に焼かれたかのように、奇妙な熱感が、心身にこびりつき、とれない状態であった。そこには何かしら、物質と意識の両域をひとつにしたような、変性意識的で、微細なエネルギーの余燼があったのである。
 しかし、実際のところ、この体験がより怖ろしい影響を持ちだすのは、この体験より後の、長い歳月を通してであった。その影響とは、日々の生活の中で、間歇的に訪れてくる、奇妙なエネルギーの浸潤ともいうべき体験であった。ゴーピ・クリシュナの著作にあるような、苦痛きわまる、困難な体験だったのである。

(つづく)

 

 

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◆大地の共振

  古来より聖地と呼ばれる場所があり、人々の生活になんらかの意味を持っていたことは、歴史的な遺跡や文献などからも、うかがい知れるところである。近年でも、俗にパワースポットなどと呼ばれる場所があり、かつての聖地の通俗版として機能していることがうかがえるのである。これらの事柄から考えると、場所や土地に関連づいた、何らかの効能が、昔から存在していたことが類推されるのである。
その原理は、よくわからないが、仮に推論すると、ひとつには、催眠的な効果などがある。たとえば、その場所が、伝承や信仰などと関連した象徴(トリガー)となっており、人がその場所を訪れると、一種の催眠的効果が惹き起こされる可能性などである。身体に聖痕が顕れる信徒などがいるが、そのような原理に基づいた、変性意識状態である。ただ、その場合は、その場所にまつわる何らかの信念に、当人が影響を受けていたり、惹起される効能(体験)に関する情報が、事前に当人にプログラムされていることが必要である。
  また、別の可能性としては、純粋に物理的なエネルギー作用である。何らかの磁気的・エネルギー的作用が、そこに存在しているのである。現代の科学では、まだ検出されていないが、未知の成分が存在しており、それらが作用しているというわけである。気功の思想領域などで想定されている内容であり、将来的には、何かの検知が得られる可能性もあるのである。

  さて、筆者は、ある見知らぬはじめての土地で、まったく予備知識もなかったにも かかわらず、ある種の変性意識状態、エネルギー的な体験を持つことになったのである。ここでは、その事例について見ていきたい。
 ちなみに何らかの事前的なプログラムの有無についていえば、その土地は、情報もなく、突然行くことになった土地であった。かつ、その特定の場所についていえば、旅の途中で偶然知り、行き当たった場所であった。つまり、事前の情報は、皆無だったのである。さて、その時は、ほとんど観光として、そのあたりの土地土地をめぐっていたのであるが、ある場所を訪れた帰り道に、とある古い史跡のことを耳にしたのである。その周辺に来て、そのような場所があることを、偶然知ったのであった。


………………………………………………………………
その場所は、予想に反して、小さな山であり、樹林も少しある静かな所であった。
古く長い石段を登り、小高い史跡のあたり一帯を、散策してみることにしたのである。
とある高台のような場所にたどり着いた時、普段はそんなことをしないのだが、何気なく手をかざして、その場を肉体的に感じてみようとしたのである。するとその時、かすかにチクリと、何かの感覚が一瞬よぎったのである。
普段そのようなことはしないので、気のせいだと思い、あまり気にもとめずに、散策をそのままつづけたのであった。ひと通り、あたりも見終わり、帰り際にすることもなくなったのであるが、その時、ふとさっきの感覚が何であったのかが気になったのである。そのため、さきほどの場所に戻り、その感覚をたしかめることにしたのである。最初の場所に行き、そのあたりの方向に、(目立たぬよう)掌を向けてみたのである。その正確な方向と位置をさぐってみたのである。

 

すると、

見知らぬ若い女性に、声をかけられたのである。

向こうの方に、旧来の祠があるのだという。
いまの祠は、後の時代につくられたものだという。
こちらだと、その女性が早足に行ってしまった方向に、慌ててついていくと、
案内してくれた、その樹々の葉繁みの向こうに、
たしかに、古い巨石群(磐座)があったのである。

(つづく)

 


~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~


二、気づきと夢見

  まず、はじめに、ここでは、「意識的に夢を見る」ということについて考えてみたい。意識的に夢を見ることは、夢の力を取り出し、外在化させるために、最も直接的な方法のひとつだからである。しかし、意識的に夢を見ることは、常識的に考えてみても分かるように、そんなに簡単なことではないのである。その状態は、白日夢と近似した状態ではあるものの、逆説的な要素を含んでいるからである。そもそも、日常意識とは、夢を見ていない状態のことを指しているからである。そのため、その状態は、ある面、日常意識と夢とを、同時に(多重的に)実現することを意味するのである。その点で、これは、心理学的に考えられた幻視の技法ともいえるものである。

  さて、夢はそもそも、自律的に奔流する野生の心の機能である。その表現も、日常的現実から見ると、非論理的、非因果的なものである。一方、日常意識は、無意識の奔流する情報を濾過・組織化し、因果的に、秩序づける働きである。夢の表現は、象徴的で暗示的、暗喩的で重層的である。一方、日常意識は、明確で明示的、論理的で単線的である。両者はある面、対極的なあり様をしているのである。そのため、両者を同時に働かせるようにするためには、両者の力が相殺しないように、両者の情報の流れを、上手く均衡させる(メタ的な)気づきawarenessの機能が、重要となるのである。気づきの力が、夢見の状態をつくり出し、保持・統御するための要となるのである。つまり、具体的には、気づきの中で、意識の焦点を緩め(拡げ)、夢の流入を導き、調節を行なっていくのである。普段でも、私たちは意識のふと緩んだ瞬間に、さまざまな空想や夢を見ているものである。それをより組織的に行なうということなのである。そのため、これは喩えると、夢の湧出と意識の集中とが、均衡(共振)する心の状態を意図的つくり出すことともいえるのである。その状態を、気づきのフレーム枠の中で、堅固に統制・保持することなのである。特に日常意識は、合意的現実を基盤として、心に自在に閃くものにフィルターをかけて、抑圧しがちである。日常意識と夢の湧出を均衡させるためには、変性意識状態を取り入れつつも、日常意識が、ある種の可動域(許容量)を柔軟に拡げていくことが求められるのである。これは慣れと訓練的な事柄であると同時に、習熟が可能な事柄でもあるのである。瞑想のように、心をじっくり注視する中でも修練が可能であるし、また、心理療法のセッションの中でも、鍛えることが可能な事柄である。また、この後に見るように、競技的な身体技法や、創作的プロセスの中でも磨いていくことが、可能な技能となっているのである。そして、この夢見の統制状態に慣れて来ると、外部領域と交わる、生活のあらゆる場面で、そのエッセンスを、知覚的霊感(創造性)として活かすことができるようになっていくのである。


(つづく)

 


~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~


第二章 野生の気づき

 ここでは、「野生の気づき」のあり方について考えてみたい。さて、通常、現代の私たちが、A地点からB地点に行くという場合、B地点に何らかの目的があって移動するのが普通である。そして、そのあいだの移動距離(時間)というものは、目的地に較べて、不要な行程(過程)とされており、価値のないものと見なされているものである。そのため、この行程を省略するための交通手段が、高い価値を有しているのである。たとえば、速度のはやい飛行機や特急車両などが高額である理由である。そこでは、行程にかかる距離と時間が、金で買われているのである。これが、私たちの、普段の価値観における、目的地(目的)志向であり、過程(プロセス)や時間に対する考え方である。

  ところで一方、野生の自然の世界とは、忍びあいの世界である。動物たちは、いつ自分が、天敵や捕食者に襲われるか分からない世界で生きている。一瞬たりとも、気(気づき)の抜けない世界である。また逆に、いつ食べ物や獲物が、目の前に現れる(チャンス)か分からない世界でもある。その意味でも、一瞬たりとも、気の抜けない世界である。自分が、捕食者として獲物を狩った瞬間に、今度は自分が獲物として捕食者に狩られてしまうという、そんな容赦ない世界である。生き延びていくためには、無際限な、瞬間瞬間の気づきが、必要な世界である。気づきの欠如は、すなわち、自らの死につながるからである。つまり、野生の世界では、気づきの持続が、イコール生きることなのである。たとえ、A地点からB地点に移動するにしても、省略してよい無駄な時間などは、一瞬も存在しないのである。すべての瞬間が、可能性であり、危険であり、魅惑であり、在ることのかけがえのない目的なのである。すべての瞬間が、生命の充満した時間なのである。

  さて、現代の私たちの(人間)世界と野生の世界との、過程のとらえ方、気づきの働かせ方を記したが、いったいどちらが、生きることの豊かさの近くにいるであろうか。生命の深さと濃密さに通じているであろうか。それは、過酷ではあるが、野生の世界であろう。
  私たちの現代社会においても、危機的なサバイバル状況では、動物のような野生の気づきが必要となるのである。現に今でも、世界では、厳しい政治状況などによって、野生の気づきをもって、生きざるをえない人々がいるのである。

  さて、本書では、このような野生の気づきのあり方に、ありうべき気づきの働かせ方、過程と時間のとらえ方を、生を透徹させる可能性を見ているのである。瞬間瞬間、サバイバル的に、野生の気づきをもって、未知の経験に開かれてあること。瞬間瞬間、能動的に、創造的体験に開かれてあること。できあいの言葉や観念で世界に膜をかけて、ものを見ないようにするのではなく、そのような人間的ゲームの外に出て、俊敏な気づきの力で、野生の創造過程を垣間見ること。そこに、私たちが、自然本来の創造性を生きる鍵があると考えているのである。


(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 


第一章 心理学的に見た変容のプロセス

 

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 ところで、禅については、青原禅師の有名な話が、一般にも知られている。禅の深化のプロセスを説いた話である。禅をはじめる前は、人が見るのは「山は山である」という、ただの普段の風景である。しかし、禅のプロセスが深化すると、風景の自明性は失われ、「山は山ではない」となる。世界は流動化し、確かなものはなくなるのである。意味から解放された空なる世界である。そして、さらに、禅が深化すると、ふたたび「山は山である」となると言われる。世界は、経過したプロセスのすべてを統合濃縮して、それ自身に回帰していくのである。宇宙の重層的な濃密であると同時に、何の変哲もない、今ここの、乾いた風景に回帰するのである。ゴミはゴミであり、糞は糞である。それは、すべてを含むもの(場所)であり、完璧であり、それはそれで良いのである。


 さて、体験的心理療法の変容プロセスも、ほぼ似たプロセスをたどっていくのである。フェーズ3においては、その最後に、旅のプロセスのすべてが重層的に反芻され、今ここに回帰して来ることとなる。旅をはじめる前の、苦悩の風景がふたたび戻って来るのである。そして、レンズの焦点が合うかのように、数十年前の風景と感覚が、今ここの透徹した風景と重なり合うのである。すると、風景はそれ自身となることによって(ゲシュタルトが完了するかのように)、すべての意味と内実が、流砂のように脱落していくのである。軽い枠だけを残して、風景は、中空になっていくのである。存在は解放され、抜け出され、無がやって来るのである。後には、今ここに渦巻く息吹と、笑いだけが残るのである。

(つづく)

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 


第二章 英雄の旅

 

…………………………………………………

 …通常、自分を完全に善(天使)と見なす者は、他者を完全に悪(悪魔)と見なすものである。善悪が、逆の場合も同様である。また、抑圧が強いと、他者に投影される姿形も、激しくなりがちである。ポイントは、主体の抑圧内容と分裂の程度なのである。そして、私たち(英雄)を殺すほどのパワーを、悪しき力が持っている場合、そのパワーは、私たち(英雄)の抑圧と分裂がつくり出した力なのである。心理学的に見れば、その悪しき力と交流するプロセスは、自我主体がその分裂した力を回復(再統合)するプロセスだと見なせるのである。そのことは、旧来の自我の危機や解体(死)と引き換えにしたとしても、最終的には望ましいことなのである。その悪しき力(自己の半面)を統合できた時に、私たちは、いくらか心の全体性を回復し、自我の刷新と、異界的な新しい力を、我が物とすることになるからである。

 ところで、昭和の時代、テレビのヒーロー番組では、主人公の出自が、悪の組織であるという設定がよくあったものである。ヒーローが持っている並外れた力の由来は、悪の獰猛な力なのである。これは、悪の力が、私たちの日常的現実を超えた、超人間的な、過剰な力であることを神話的に示しているのである。またこれは、普段、私たちが、反社会的な、アウトロー的な力に魅惑される理由でもある。そこには、日常的現実に収まらない、生の過剰的な力が表象されているからである。悪の神話学の法則である。そして、その悪の力の中で、さらに目覚めて、その力を奪い返す(盗み取る)というトリックスター的な、超出的な飛躍(変換)が、英雄の方程式なのである。ヒーローたちが、悪の組織から裏切り者と呼ばれていた理由である。また、単なる凡庸な善の世界にも同化できない理由である。しかし、その変換プロセスを通して、英雄(私たち)は、善悪を含み超えた、自己の深い全体性を育てていくのである。そして、孤絶した、自由で軽やかな個的超越を獲得していくのである。

(つづく)

 

 

~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~


◆変容の原理

 では、生の変容過程(行きて帰りし旅)とは、どのような原理や構造を、その深層に持っているのであろうか。それを見ていきたい。前章では、英雄の旅とゲシュタルト療法のセッションが、類似した体験過程を持つことについて見てみた。また、第三部においては、ブレスワークとゲシュタルト療法のセッションが、深層において、共通の体験過程を持っていることについて触れた。ここからも類推されるように、生の全体性を指向する変容プロセスには、根っこのところで、同種の体験過程があるようなのである。それは、何度か引いた、次のようなプロセスである。

「たいていの場合、ホロトロピック(※全体指向的)な体験は、オルガスム曲線を描き、感情のもり上がりとともに、身体的兆候が現れ、それが絶頂期を迎え、突如の解決に導くといった経路をたどる」 (グロフ、前掲書 ※引用者)

 中心にある原理は、生体の、絶頂へと向かう自律的な解放運動と、本然性回復のプロセスなのである。それは、短期的にも長期的にも、未完了のゲシュタルトの表出(充足)のプロセスとなっているのである。その絶頂を目指す運動にともなって、エネルギーの緊張と解放が生じ、未全なゲシュタルトに対する意識化のプロセスが起こって来るのである。

 そして、この過程については、どのような視点(意識と無意識、時間的長短)から、プロセス全体を見るかによって、見えるモデルが違って来るのである。無意識の力の浮上と、意識への浸食を中心にプロセスを見ると、ブレスワーク(短期的過程)や、心理的変容のフェーズ(長期的過程)が見えて来る。一方、無意識と格闘する意識の統合過程を中心に、プロセスを見ると、ゲシュタルト療法のセッション(短期的過程)や、英雄の旅(長期的過程)の形態が見えて来るのである。どこに視点を置いて、プロセス全体を見るかによって、参照する変容モデルも変わって来るのである。しかし、全体としての運動の姿を見てみると、絶頂を目指すオルガスム曲線のようなベクトルが見えて来るのである。それは、前にも触れたように、自発的な異物解消と本然性回復の、生命生理的プロセスなのである。

 特に、このオルガスム曲線のプロセスは、行きて帰りし旅の「行き」の部分、つまり異界的彼方へ向かう局面においてよく当てはまるのである。グロフ博士は、次のような観察を、各所で指摘している。つまり、ブレスワークの体験過程においては、生体の中で、あたかも自動的にスキャン(走査)がはじまり、不具合箇所が見つけ出され、その問題が自然に解消されていくようであると。おそらく、これと同様の形で、人生の長期的なプロセスにおいても、私たちの無意識の力は、未完了のゲシュタルトを、意識の前景(図)に押し出して来て、それらを解消するようにと、私たちに促して来るのである。そのことで、より自由な生命の流動性を獲得できるようにと、未完了な心理課題を解消する絶頂的表出(意識化)へと、私たちを追い込んで来るのである。ただし、このオルガスムのプロセスは、たった一回の絶頂で、すべてが解放されてしまうほど、単純な構造にはなっていない。そのため、終局的な解放を目指して、異物のような未完のゲシュタルトを解除する小さな絶頂を、人生で幾度も繰り返していくこととなるのである。

 また、ブレスワークのセッションの中では、さまざまな身体症状や激しい情動が溢れて来て、私たちの意識を圧倒して来るものである。それと同じように、人生の長い過程においても、無意識の力は、私たちの意識の前面に、ときどきの解消すべきテーマ(障害、課題)を現わして来るのである。心理的な投影を介して、実在の人物や事件の姿を借りて、それらを現わして来たりするのである。そして、私たちを怖れさせたり戦わせたり、魅惑したり愛させたりしながらも、終局的なゴールへ向かって追い込んで来ることになるのである。無意識が活性化すると、私たちは、それらの像たちにも感応(感染)しやすくなるからである。そのようにして、普段の人生の、長期的なプロセスにおいても、私たちは、悲喜交々や激しい愛憎体験を通して、解放へのオルガスム曲線を、その果てまで辿ることになるのである。

 さてまた、オルガスム曲線モデルにおいては焦点が当たらない、旅の「帰り」の部分、往還の「還」の部分を含めて考えると、この行きて帰りし旅には、さらに、どのようなプロセス(モデル)が見えてくるだろうか。そこにおいては、(オルガスム曲線と重なって)生命における成長と結実、拡張と収縮のサイクルが見えて来るのである。つまり「食と性の宇宙リズム」(三木成夫)である。このリズムにおいては、拡張(成長繁茂・春夏)と収縮(開花結実・秋冬)のサイクルが、繰りかえし反復されている。「行き」である拡張においては、成長繁茂のプロセスが、若さのようにオルガスム的解放を求めて、果てまで行くことを目指すのである。生命が、潜在力の十全な解放をめざして、冒険のよう果てまで行くことを目指すのである。一方、「帰り」である収縮においては、開花結実のプロセスが、世界との交感・交合を、収穫や果実として、凝集・凝固することを目指すのである。これは、普段から、私たちがよく目にする、自然界の原理的な姿なのである。

 さて、このようにして見ると、私たちの人生に現れる変容過程が、オルガスム曲線を描きつつも、拡張と収縮、成長と結実を、季節のように繰りかえす、生命の普遍的な相貌と重なって来るのである。
 ところで、この探索における実践上のポイントについていえば、ここでもまた、主体的な姿勢として肝要なのは、気づきと好奇心を持ちつつ、このプロセスを「果てまで」行ききってみようと試みることなのである。その生長を、果てまで展開し尽くしてみようとすることなのである。そのことで、私たちは、神話英雄のように、生命の未踏の領域に到達し、焼尽するような変容を通して、こちら側に還って来ることができるのである。
 そして、また、そのように見ると、この旅の果てにあるものが、食と性の接点、個と類をつなぐ点としての絶頂、つまり、愛と交換の地点であるというのは、興味深い事柄でもある。そこにおいて、私たちは自らを超出しつつ、存在を二重化し、自己と他者、生と死、昼と夜とがひとつになるような存在に変貌するからである。


(つづく)


~~~~~~~~~~本文より~~~~~~~~~~

 

 

◆気づきの未来

……………………………

 ところで、ゲシュタルト療法の解説の中では、私たちが普段、心身や内的なものを投影して、外部の現実を見ていることについて触れた。その意味で、私たちの「現実」とは、自身の心が映し出したものであるともいえるのである。つまり、この点においても、私たちは、昼間の生活の中で、一種の夢を見ている状態にあるということなのである。ただ、この夢は、他者の夢とも混じりあった、集合的で混濁した夢(悪夢)でもある。その中で、私たちは、日々、人生のさまざまな判断を行ない、行動を起こしているのである。しかし、自分の夢に対して、より鋭い気づきが働かせられるようになると、この昼間の夢の中においても、より醒めた気づきの力を働かせられるようになるのである。昼の混濁した夢のただ中で「これは夢(悪夢)だ」と感じ取れるようになるのである。昼夜を超えた気づきの修練は、私たちの洞察力を、より透徹したものに変えてくれるのである。


 ところで、昼間の生活の中で飛び交い、入り混じっている夢の力は、集合的なものの陰画や、抑圧された欲求の投影ばかりとはかぎらないのである。また合意的現実の内容ばかりでもないのである。私たちの魂の奥処からは、宇宙的な創造の大波が、狂気の智慧が、稲妻(トリックスター)のように、時々に寄せて来ているのである。そして、それらに対しても、習熟により、すばやい気づきを働かせて、その流れに乗り込むことができるようになるのである。喩えると、夜の夢の中で、自分の掌を見つけだすように、昼間の生活においても、時々に必要な「掌」を見つけだし、そこにひそむ夢の来訪や、渦巻く振動性のエネルギーを、相応しい在り方(音色)で活かせるようになっていくのである。いわば夢見のトラッキングである。そして、そのことを通じて、あたかも緩やかになった瞬間に入り込むように、痕跡と残像の向こう側にある、より奔放な生の戯れに、忍び寄りつつ、生きられるようになるのである。それは、私たちのこのざらついた現実を、砂絵のように極彩色な、創造性の息吹に変えてくれるのである。

(つづく)

 

 

 

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